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野茂英雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

野茂英雄
Hideo Nomo
カンザスシティ・ロイヤルズ No.91
image:Image:HideoNomo.png

タンパベイ・デビルレイズ時代

基本情報
国籍 image:Image:Flag of Japan.svg 日本
出身地 大阪府大阪市港区
生年月日 1968年8月31日(41歳)
身長
体重
188cm
104kg
選手情報
投球・打席 右投右打
守備位置 投手
プロ入り 1989年 1位
初出場 1990年4月10日(NPB)
1995年(MLB)
経歴
Template  ウィキプロジェクト 野球選手
オリンピック
男子 野球
1988 野球

野茂 英雄(のも ひでお、1968年8月31日 - )は、カンザスシティ・ロイヤルズに所属するプロ野球選手投手)。右投右打。

大きく振りかぶってから背中を打者に向ける独特の投法から繰り出される、キレのあるストレートと2種類のフォークボールが特徴で、どの球もほぼ同じフォームで投げられることも武器である。なお、この投法は公募により「トルネード投法」と命名された。

目次

来歴・人物

成城工高 - 新日鐵堺 - 近鉄バファローズ - ロサンゼルス・ドジャース - ニューヨーク・メッツ - シカゴ・カブス(マイナー契約) - ミルウォーキー・ブルワーズ - デトロイト・タイガース - ボストン・レッドソックス - ロサンゼルス・ドジャース - タンパベイ・デビルレイズ - ニューヨーク・ヤンキース(マイナー契約) - シカゴ・ホワイトソックス(マイナー契約) - カンザスシティ・ロイヤルズ

プロ入り以前

小・中学校時代の野茂は全くの無名選手であった。この頃すでに「体を捻って投げると直球の威力が増す」と考え、トルネード投法であった。名門野球部のセレクションをいくつか受けるも不合格(当時、セレクションを受けた野球部の監督は『そんな体を捻る投球フォームじゃ、絶対大成しない』と言って野茂に目をかけなかった)、甲子園とは縁の無い公立高校に進む。

成城工高時代には2年生からエースとなり、選手権大会大阪府予選では2年生の時に完全試合(2回戦、対生野高)、3年生の時はベスト16(5回戦)進出等の成績を残す。この時期すでに「トルネード投法」で投げていた。

高校卒業時、この時すでに近鉄から誘いがあったが野茂は断り、ノンプロ・新日鐵堺への入社を選ぶ。新日鐵堺での1年目、野茂は「伝家の宝刀」フォークボールを習得、これがその後の野球人生を切り開いてゆくこととなる。2年目はエースとしてチームを都市対抗に導き、日本代表に選ばれ、1988年ソウルオリンピックでの銀メダルに貢献する。名実共にアマNo.1投手となった野茂はその進路が注目されたが、1989年のドラフト会議前、野茂はどの球団から指名されても入団することを明言する。

日本プロ野球時代

  • 1989年のドラフト会議で、史上最多の8球団(阪神ロッテヤクルト大洋ダイエー日本ハムオリックス近鉄)から1位指名を受け、抽選で近鉄が交渉権を獲得した。契約金は史上初の1億円台(1億2000万円)、年俸1000万円。契約時、投球フォームを変更しないという条項が付け加えられた。
  • 1990年4月10日、対西武戦でプロ初登板(藤井寺球場)。
  • 1990年4月29日、対オリックス戦(西宮)で初勝利(プロ4試合目)。完投で17奪三振の1試合奪三振数日本タイ記録(当時)を樹立し、「ドクターK伝説」の幕開けを飾るにふさわしい勝利を飾った。最多勝利最優秀防御率最多奪三振最高勝率と主要四冠を独占。ベストナイン新人王沢村賞、そしてMVPに選ばれ、プロ野球界に「旋風」を巻き起こした。
    • パ・リーグの投手が沢村賞の選考対象となったのは1989年からで、野茂はパ・リーグからの受賞第1号となった。現在までに権藤博堀内恒夫上原浩治が新人王と沢村賞、木田勇が新人王とMVPのダブル受賞を果たしているが、新人王・沢村賞・MVPをトリプル受賞したのは野茂のみである。
  • 1990年1993年の4年間、最多勝利最多奪三振のタイトルを独占。
    • 4年連続最多勝利は勿論、新人年から4年連続最多勝利のタイトルを獲得した投手は野茂のみである。立花龍司トレーニングコーチとの「太く長く」を目指したトレーニングも功を奏した。
  • 1994年は右肩痛のため目立った活躍が出来なかった。
    • 西武との開幕戦で8回までノーヒットノーランに抑える(4回まで11奪三振を記録)。

メジャーリーグ時代

年度別投手成績

年度 チーム 背番
登板 完投 完封 勝利 敗戦 セーブ 勝率 投球
被安
与四
与死
奪三
失点 自責点 防御
1990年 近鉄 11 29 21 2 18 8 0 .692 235.0 167 109 4 287 87 76 2.91
1991年 31 22 4 17 11 1 .607 242.1 183 128 5 287 92 82 3.05
1992年 30 17 5 18 8 0 .692 216.2 150 117 1 228 73 64 2.66
1993年 32 14 2 17 12 0 .586 243.1 201 148 7 276 106 100 3.70
1994年 17 6 0 8 7 0 .533 114.0 96 86 2 126 55 46 3.63
1995年 LAD 16 28 4 3 13 6 0 .684 191.1 124 78 5 236 63 54 2.54
1996年 33 3 2 16 11 0 .593 228.1 180 85 2 234 93 81 3.19
1997年 33 1 0 14 12 0 .538 207.1 193 92 9 233 104 98 4.25
1998年 12 2 0 2 7 0 .222 67.2 57 38 3 73 39 38 5.05
NYM 17 1 0 4 5 0 .444 89.2 73 56 1 94 49 48 4.82
1999年 MIL 11 28 0 0 12 8 0 .600 176.1 173 78 3 161 96 89 4.54
2000年 DET 23 32 1 0 8 12 0 .400 190.0 191 89 3 181 102 100 4.74
2001年 BOS 11 33 2 2 13 10 0 .565 198.0 171 96 3 220 105 99 4.50
2002年 LAD 10 34 0 0 16 6 0 .727 220.1 189 101 2 193 92 83 3.39
2003年 33 2 2 16 13 0 .552 218.1 175 98 1 177 82 75 3.09
2004年 18 0 0 4 11 0 .267 84.0 105 42 4 54 77 77 8.25
2005年 TB 11 19 0 0 5 8 0 .385 100.2 127 51 2 59 82 81 7.24
NPB通算(5年) 139 80 13 78 46 1 .629 1051.1 797 588 19 1204 413 368 3.15
MLB通算(11年) 320 16 9 123 109 0 .530 1972.0 1758 904 38 1915 984 923 4.21
日米通算(16年) 459 96 22 201 155 1 0 3023.1 2555 1492 57 3119 1397 1291 3.84
  • 2007年シーズン終了時
  • 表中の太字はリーグ最高

獲得タイトル・記録

日本プロ野球

MLB

エピソード

オーナー

野球に関して

  • 驚異の奪三振率から「ドクターK」の異名を持つ。
  • 高校2年生で達成した完全試合の投球内容は内野ゴロ13、内野フライ2、外野フライ2、三振10、104球。「打たせて取る」投球だった。
  • 名門野球部に進んでいたら、フォーム矯正によりトルネード投法をやめさせられた可能性があるため、今の野茂はなかったと言われる。
  • プロ初奪三振は初登板・初先発の1990年4月10日西武戦(藤井寺)。1回表、4番・清原和博から。1番・辻発彦が四球、2番・平野謙のバント処理を誤り一・二塁、3番・秋山幸二も四球で無死満塁の大ピンチだった。
  • 1991年のオールスターゲームで、全パの秋山幸二が自打球により負傷退場し、他に野手が残っていなかったため、代打で出場したことがある。結果は見逃し三振だった。既に秋山が2ストライクを取られていたために記録上は秋山の三振である。この時、オリックス・ブルーウェーブのヘルメットをかぶって打席に立った。
  • 1994年の西武戦で個人1試合16与四球の日本新記録を樹立するも3失点完投勝利を挙げている。投球数は189球で野茂のスタミナとエースとしての信頼を物語っている。
  • 近鉄時代に、同期入団の石井浩郎や、金村義明以外の野手とは基本的に仲が良くなかったと言われる。フォームが通常とは違うため守備側もタイミングが取りづらいこと、コントロールが悪く球数が多いために守っている時間が長く、四球を連発する野茂に野手が反感を持っていたためだとされる。
  • ドジャース入団1年目に大リーグの伝統「新人への洗礼」を受けている。チームメイトが新人歓迎の意味でちょっとした悪戯を仕掛けるものだが、野茂も夏場ロッカーにしまったスーツを毛皮の服にすり替えられたり(結局その格好で移動の飛行機に乗った)、シカゴにある南北戦争の英雄リー将軍の銅像の馬の急所に、先輩選手に誘われチームカラーの青のペンキを塗りに行き、後日警察に検挙されそうになったり(実はこれもチームメイトが仕組んだ)、少々手荒い、しかし温かい歓迎を受けた。野茂は後に「あれでチームの一員になったと実感した」と語っている。
  • 古巣近鉄がヤクルトと対戦した2001年の日本シリーズ第5戦の中継でゲストとして出演したが、たびたび配球を読み当てるなど的確な発言で「さすが野茂」と見る者を唸らせた。実況に「野茂さんから見てローズ選手や中村紀洋選手の2001年版いてまえ打線の印象はどうですか?」と聞かれ、「僕がいた時はブライアント石井さん、鈴木さん、金村さんがいましたけど、あの時と、まぁメンバーはもう全然変わってますけど、構成も似てますし、近鉄は変わってないですね」と笑ってコメントした。
  • メジャーリーグで最初のノーヒットノーランロッキーズ戦)では試合前の雨のせいでマウンドがぬかるんだため、試合の途中からランナーがいなくてもセットポジションで投げ、制球安定につながった。
  • クアーズ・フィールドにてノーヒットノーランを達成したことがあるのは、現在野茂1人である。高地で空気が薄く、投手のスタミナの消耗が早く、ボールが飛びやすい球場のため(現在はボールを飛ばないようにしている)、難易度はかなり高い記録であり不可能を可能にしたノーヒッターといわれこの球場でのノーヒッターは今後二度と出ないだろうといわれている。
  • 2度目のノーヒットノーランは2001年4月、オリオール・パーク・アット・カムデン・ヤーズでの対オリ オールズ戦で達成した。20世紀、21世紀と世紀を跨いで記録したのはメジャーの歴史で野茂とランディ・ジョンソンだけである。

 ちなみに、21世紀最初のノーヒッターである。

  • ドジャースに復帰した2002年、同じチームメイトであった石井一久と与四球数において、メジャー全体で1-2位を記録した(1位は石井106個、2位は野茂103個)。
  • ゲイリー・シェフィールドに対して、メジャーデビューしてから天敵といっていいほど相性が非常に悪く、苦手としている(対戦成績は35打数17安打(対戦打率.486)4本塁打13打点9四球6盗塁)。
  • 日米通算200勝を達成して名球会入りの権利を得たが、「今は返事をする必要がないと思う」として意思表明を保留しており、正式入会には至っていない。
  • メジャーリーグ生活の大半を過ごしたドジャースから勝ち星を挙げれば、史上2人目の「メジャー全30球団から勝利」を達成することになる。

近鉄退団に関して

  • ドラフト後、野茂は近鉄への入団条件に「投球フォームの改造をしないこと」を挙げた。仰木彬監督はあっさり了承し、調整方法も野茂に任せることにした。これにより野茂は仰木を信頼するようになった。反面、後任の鈴木啓示監督はフォームや調整法など様々なことに関して一方的に野茂に干渉するようになった。例として野茂は開幕戦で調子が整えばそれで良いという考え方で開幕前はスロー調整であったが、鈴木はオープン戦から結果を要求し、また野茂は遠投など自己流でスタミナを作っていたが、鈴木はひたすら走りこむことを要求するなどをしてきた。そのため、結果として野茂は鈴木を毛嫌いするようになり、近鉄退団の大きな理由になった。
  • 監督就任直後、道上洋三のラジオ番組への出演で、鈴木は野茂に関して「今のフォームではいずれ通用しなくなる。そのときに私に頭を下げてこられるかどうかだ」と述べ、完全に野茂のフォームを否定していた。しかし、これらの発言から、鈴木は野茂の飛躍によって指導者としての評価を著しく下げてしまう結果となった。
  • 野茂は仰木監督時代からフロントには様々な不満があったことを語っている。
    • 野茂が先発する日に自分で車を運転して藤井寺球場に行き、駐車場に車を止めた。すると球団関係者が近付いて来て、近鉄本社の人間が来るので車を動かすことを要求された。
    • 契約更改の席で、フロントから「熾烈な優勝争いをして2位に終わるのが一番」と言われた(観客動員が増えることで収入が増え、優勝したらその分年俸を上げなくてはいけなくなるため)。
    • 最多勝を獲得したのに年俸が上がらなかった。
  • 野茂はメジャー入団後に、近鉄との確執に関連して「自分を信頼してくれた仰木さんを胴上げするためにチームに貢献しようと頑張っていたが、仰木さんが近鉄監督を辞められたことでその気持ちは薄れてしまった」と語っている。
  • 野茂をはじめとする近鉄投手陣は立花龍司トレーニングコーチに絶大な信頼を寄せていた。しかし近鉄フロントは一方的に立花コーチを解雇したため、近鉄投手陣はフロントに反感を持った(これに怒った一人が吉井理人で、トレードに出される理由になったとされる)。
  • 1994年オフ、複数年契約と代理人制度(代理人は団野村)を近鉄に要求。近鉄側は、野茂が肩を故障してシーズン後半に登板できなかったのを理由に拒否して契約がこじれたが、一連の野茂の動きを「わがまま」ととらえた近鉄フロントは、野茂が近鉄でプレーする気がないのなら、野茂を移籍に出したり自由契約にするのではなく任意引退扱い(近鉄を自由契約にならない限り、他の日本の球団でプレーすることは不可能)にしようとした。これが最大の理由となって、野茂は渡米する決意をした。
  • 近鉄球団は94年オフの契約更改の場で野茂を「君はもう近鉄の顔ではない。」と言い放ったが、翌年ストライキ明けでファン離れの進んでいたメジャーリーグのファンを呼び戻す救世主となった経緯を見ても、近鉄球団の野茂に投げかけた言葉は慧眼であったといえよう。時を経て近鉄球団は消滅した。

プライベート

  • マスコミに対する態度やインタビュー、鈴木監督との確執、メジャーリーグ移籍騒動というイメージから無口で無愛想に見られがちだが、実は明るくよく喋る性格である。友人である木田優夫を通じて出演する明石家さんまの番組でも知ることができる。「さんまのまんま」出演時、野球教室にさんまがノーギャラで駆けつけることを約束したが、未だに果たせていないことを木田を通じて何度もさんまにアプローチしている。佐野重樹吉井理人赤堀元之金村義明など近鉄時代のチームメイトとは今も交流が続いており、チャリティーなど野茂が主催する会合には電話1本、ノーギャラで駆けつける間柄である。
  • アマチュア時代には潮崎哲也とかなり仲が良かった。ソウル五輪に出場した際には、選手村でどこで何をするのも2人一緒だったので、チームメイトだった古田敦也などから冗談半分で「怪しい関係?」と噂されたこともあった。
  • 石橋貴明との友情も有名で、野茂が作詞した「nothing around」はとんねるずのアルバム『おまえ百までわしゃ九十九まで』に収録されている。とんねるずがメインを務めた人気テレビ番組とんねるずのみなさんのおかげです内の人気コーナー「モジモジ君」にもゲストとして出演したことがある(コーナー内の役名は「モジ茂」。コーナーの主旨どおり全身タイツ姿で登場している)。
  • 大食いでも有名。好物は寿司。新人時代、当時解説者だった佐々木恭介に連れられて高級すし屋に行き、一人で寿司100カンを食べて佐々木を仰天させたことがある。新人王を獲得した1990年、当時の仰木彬監督とすし屋に行った際には、トロとウニを際限なく注文したという話も残っている。
  • 近鉄時代の同僚・金村義明が「野茂の趣味はファミコン」と言っていた。競馬も趣味の一つであるため、ダービースタリオンが大好きで、徹夜で馬を育てて妻に怒られたこともある。彼に競馬を教えたのは吉井理人で、野茂はその見返りにフォークを教えたという。
  • セガサターンのゲームソフト『プロ野球チームもつくろう!』(1998年2月19日)の監修を手がけている。この作品ではFAの資格が3年でとれるようになっているが、野茂の発案である。なお、同作の前々年に発売された『野茂英雄ワールドシリーズ ベースボール』(セガサターン、1995年11月17日発売)『野茂英雄のワールドシリーズベースボール』(ゲームギア、1995年12月1日発売)は、名前が冠されただけで製作及び監修に一切関わっていない。
  • 日本野球時代に選手たちとハワイへ旅行に行くたび、体格が大きいので警備に止められる。「僕は投手です」と答えると、「では投げる真似をしてみろ」と言われ、トルネード投法を披露すると、「お前、嘘だろ!」と言われたことが何度かあったという。
  • 「英雄」という名は父が村田英雄の大ファンであったことから付けられた。
  • シンガーソングライターである井上陽水は、自らが作詞作曲歌唱した『英雄』という楽曲について、野茂をイメージして制作したと発言している。歌詞を見ても「アメリカンサマー 夢のブルー」「きっとあなたはロビンソン」など、メジャーリーグという未知の舞台で活躍した野茂への賛辞が読み取れる。

社会現象

  • 1995年にディアマンテスが野茂の応援歌『野茂英雄のテーマ HIDE~O』(『バナナ・ボート』の替え歌)をシングルCDで発売。当時、「野茂が投げれば大丈夫」の歌詞は街でよく聴かれ、ブームにもなった。2005年にマキシシングルで再発売された。
  • 1998年、3社の高校英語教科書に登場。うち1社はトルネード投法を分解写真付きで紹介した。

関連項目

テレビCM出演

外部リンク

先代:
R.ブライアント
パ・リーグMVP
1990年
次代:
郭泰源
先代:
酒井勉
パ・リーグ新人王
1990年
次代:
長谷川滋利
先代:
斎藤雅樹
沢村賞
1990年
次代:
佐々岡真司
先代:
阿波野秀幸
パ・リーグ最多勝投手
1990年-93年
渡辺久信(1990)
野田浩司(1993)
次代:
伊良部秀輝
先代:
村田兆治
パ・リーグ防御率1位
1990年
次代:
渡辺智男
先代:
阿波野秀幸
パ・リーグ最多奪三振
1990年-93年
次代:
伊良部秀輝
先代:
アンディ・ベーネス
ア・リーグ最多奪三振
1995年
次代:
ジョン・スモルツ
先代:
ペドロ・マルティネス
ナ・リーグ最多奪三振
2001年
次代:
ペドロ・マルティネス
先代:
ラウル・モンデシー
ナ・リーグ新人王
1995年
次代:
トッド・ホランズワース
先代:
千代の富士貢
日本プロスポーツ大賞受賞者
1990年
次代:
辰吉丈一郎
近鉄バファローズ
1989年ドラフト指名選手
1位:野茂英雄 / 2位:畑山俊二 / 3位:石井浩郎 / 4位:藤立次郎 / 5位:平江巌 / 6位:入来智

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2008年4月8日 02:04 版 改訂履歴
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