ロゴ
0155Wikipedia
ウィキペディア(Wikipedia)の検索ができます。

武田信玄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

武田晴信/武田信玄 凡例
image:Image:Takeda Harunobu.jpg
絹本著色武田晴信画像(高野山持明院蔵)
時代 戦国時代
生誕 大永元年11月3日1521年12月1日
死没 元亀4年4月12日1573年5月13日
改名 武田勝千代、晴信、徳栄軒信玄
別名 太郎、甲斐の虎
戒名 法性院機山信玄
墓所 信玄墓大泉寺恵林寺諏訪湖
長岳寺竜雲寺高野山福田寺
妙心寺ほか
官位 従四位下大膳大夫信濃守、贈従三位
幕府 室町幕府甲斐守護職・信濃守護職
氏族 武田氏清和源氏河内源氏甲斐源氏
父母 父:武田信虎、母:大井の方
兄弟 竹松、信玄、犬千代、信繁
信基信廉松尾信是宗智
河窪信実一条信龍信友勝虎
定恵院今川義元室)、南松院(穴山信友室)
禰々諏訪頼重室)、菊御料人(菊亭晴季室)
亀御料人(大井信為室)
正室:上杉朝興の娘
継室:三条公頼の娘・三条の方
側室:諏訪頼重の娘・諏訪御料人
禰津元直の娘・禰津御寮人
油川源左衛門の娘・油川夫人ほか
義信海野信親信之黄梅院北条氏政室)
見性院穴山信君室)、勝頼
真竜院木曾義昌室)、仁科盛信葛山信貞
信清松姫織田信忠と婚約)、菊姫上杉景勝室)

武田 晴信武田 信玄(たけだ はるのぶ/たけだ しんげん)は、戦国時代武将甲斐守護大名戦国大名

本姓源氏家系清和源氏の一家系河内源氏の傍系・甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家第19代当主。、晴信。「信玄」とは(出家後の)法名。大正期に従三位を贈られる。

甲斐の守護を代々務めた甲斐源氏武田家の嫡男として生まれ、前代・信虎期には国内統一が達成され、信虎体制を継承して隣国・信濃に侵攻する。その過程で対立した越後上杉謙信と5次にわたると言われる川中島の戦いを行ないつつ信濃をほぼ平定し、甲斐本国に加え信濃、駿河、西上野遠江三河美濃の一部を領し、次代の勝頼期にかけて武田氏の領国を拡大した。晩年には上洛の途上、三河で病を発し信濃で病没した。

江戸時代から近現代にかけて『甲陽軍鑑』に描かれる伝説的な人物像が広く浸透し、風林火山の軍旗を用い、甲斐の虎(または甲斐の龍とも)と呼ばれ、強大な武田軍を率い上杉謙信の好敵手としてのイメージが形成される。現在でも、地元の山梨県をはじめ全国的に高い知名度を持ち、人気を集めている戦国武将の一人。

目次

生涯

甲斐国守護

大永元年(1521年11月3日武田信虎と正室の大井夫人との間の子として甲斐国積翠寺城で生まれた。幼名は「勝千代(かつちよ)」。

父は甲斐源氏の名門・武田氏の第18代当主で、甲斐を統一して戦国大名としての地位を確立した勇将である。信玄が生まれた大永元年(1521年)に甲斐は駿河の今川氏親の命を受けた福島正成率いる1万5000人の軍勢に攻められていたが、武田軍は勝千代の誕生を知って士気を奮い立たせ、今川軍を撃退したと言われている。また、「甲陽軍鑑」や「武田三代記」などによれば、信玄誕生のとき、産屋の上に一条の雲がたなびき、白旗の風に翻るように見えたが、それが消えたとき、一双の白鷹が3日間も産屋にとまったとされる。このため、諏訪明神の神使が若君(信玄)を守護してくれるのだと末頼もしく思ったとされている。別の話では、信虎が陣中で休息しているとき、曽我五郎が自分の子になる夢を見て、そのときに信玄が生まれたとされている。

しかし大永5年(1525年)父・信虎と大井夫人との間に次郎(武田信繁)が生まれると、父の寵愛は次郎に移り、勝千代を徐々に疎むようになったと言われる。

最初の正室は天文2年(1533年)、父の政略により迎えられた上杉朝興の娘である。晴信と彼女の仲は良かったらしく、天文3年(1534年)に彼女は妊娠したが、難産で彼女も子も死去してしまった。このため、継室左大臣三条公頼の娘である三条夫人を迎えている。

天文5年(1536年)に今川氏輝が死去し、今川義元が家督を継ぐと武田氏は今川氏と和睦し、義元の斡旋を受けて、勝千代は三条公頼の娘を室に迎える。同年に室町幕府第12代将軍・足利義晴から偏諱を賜り、名を「晴信」と改め元服。従五位下・大膳大夫・信濃守に叙位・任官される。初陣は信濃国海ノ口城主・平賀源心攻めであると言われる(異説あり)。晴信は嫡男として遇されていたが、甲陽軍鑑によると、信虎との関係はますます険悪となっていたらしく、天文7年(1538年)正月の元旦祝いのとき、信虎は晴信には盃をささず、弟の信繁にだけ盃をさしたという逸話がある。

天文10年(1541年)、宿老であり有力国人領主である板垣信方甘利虎泰飯富虎昌等に擁立され、父・信虎を駿河国へ追放し、武田家第19代家督を相続する。信虎の追放の理由は後世の史書には悪行のためと記されているが、真偽のほどは不明。信虎は各方面での戦争を続け、国人勢力の統率に強力な中央集権化政策を採る一方で、大凶作中にも戦争と苛烈な政策をとり続け、奉行衆の造反を招いている。父・信虎の駿河への追放及び晴信の家督相続を「甲斐国の領民たちは歓迎していた」とも記されている。

信濃国を平定

父・信虎を追放した直後、信濃国諏訪上原城主・諏訪頼重、同じく信濃林城主であり信濃国守護職の小笠原長時が甲斐国に侵攻してくるが、晴信はこれを撃退した。そして天文11年(1542年)6月、晴信は逆に諏訪領内への侵攻を目論むようになる。折しも諏訪氏内部では諏訪頼重・高遠頼継による諏訪宗家を巡る争いが起こっていたため、晴信はこれに介入し、高遠頼継と手を結んで諏訪頼重を滅ぼし、諏訪を平定した。続いて同年10月、諏訪領の分割問題から高遠頼継と対立し、高遠軍を小淵沢で破った。

天文12年(1543年)、信濃国長窪城主・大井貞隆を攻めて自害に追い込んだ。天文14年(1545年)4月、上伊奈高遠城に侵攻し、高遠頼継を、続いて6月には福与城主・藤沢頼親も滅ぼした。

天文16年(1547年)、志賀城笠原清繁を攻める。このとき、笠原軍には上野上杉憲政の援軍も加わったため苦戦したが、8月6日小田井原の戦いで武田軍は上杉・笠原連合軍に大勝する。ところがこのとき、晴信は小田井原で討ち取った約3,000人の敵兵の首級を城のまわりに打ち立てて城方への脅しとし、結果、城兵は篭城を解かず笠原清繁始め城兵の多くが討ち死、さらに残った女子供と奉公の男は人質・奴隷にするなど過酷な処分を下した。この事件が信濃国の国人衆に晴信への不信感を植え付け、信濃平定を大きく遅らせる遠因となったと言われている。同年、分国法である甲州法度之次第(信玄家法)を定める。

天文17年(1548年)2月、晴信は信濃国北部に勢力を誇る村上義清と上田原で激突する(上田原の戦い)。しかし兵力で優勢にありながら武田軍は村上軍に敗れて宿老の板垣信方・甘利虎泰らをはじめ多くの将兵を失った。晴信自身も傷を負い甲府の湯村温泉で30日間の湯治をした。この機に乗じて同年4月、小笠原長時が諏訪に侵攻して来るが、晴信は7月の塩尻峠の戦い(勝弦峠の戦い)で小笠原軍に大勝した。

天文19年(1550年)7月、晴信は小笠原領に侵攻する。これに対して小笠原長時にはすでに抵抗する力は無く、林城を放棄して村上義清のもとへ逃走した。こうして、中信は武田の支配下に落ちた。

勢いに乗った晴信は同年9月、村上義清の支城である砥石城を攻める。しかし、この戦いで武田軍は後世に砥石崩れと伝えられる大敗を喫し、横田高松小山田信有らを初めとする1,000人以上の将兵を失った。

しかし天文20年(1551年)4月、真田幸隆(幸綱)の策略で砥石城が落城すると、武田軍は次第に優勢となり、天文22年(1553年)4月、村上義清は葛尾城を放棄して越後の長尾景虎(上杉謙信)のもとへ逃れた。こうして東信も武田家の支配下に入り、晴信は北信を除き信濃をほぼ平定した。後に、信濃守護となる。

川中島の戦い

image:Image:Sengoku period battle.jpg
第四次川中島の戦い

天文22年(1553年)4月、村上義清の要請を受けた長尾景虎が5000の軍勢を率いて信濃川中島に進出してくる(第1次川中島の戦い)。しかし晴信も景虎も軍を積極的に動かすことなく、5月には両軍ともに撤退した。

同年8月、景虎の支援を受けて大井信広が謀反を起こすが、晴信はこれを直ちに鎮圧した。

天文23年(1554年)の春、長尾景虎に対抗するため、晴信は長男・義信の正室に今川義元の娘を迎え、また娘を北条氏康の嫡男・北条氏政に嫁がせて、後北条氏とも同盟を結んだ。今川氏と北条氏は武田家を仲介として、氏康の娘が義元の長男・今川氏真に嫁ぐことで同盟を結び、甲相駿三国同盟を成立させた。

永禄4年(1561年)、武田軍2万と上杉軍1万3,000との間で、4度目の川中島の戦いが行なわれる(第4次川中島の戦い)。この戦いは、それまでの川中島の戦いの中で最大規模の戦いとなり、両軍合わせて6,000人余の死者が出たと言われている。この戦いで武田軍は信玄の弟・武田信繁、諸角虎定山本勘助三枝守直ら有力武将の多くを失ったという。

永禄7年(1564年)にも上杉軍と川中島で対峙したが、衝突することなく終わっている(第5次川中島の戦い)。

今川・北条との戦い

川中島の戦いの後、信玄は侵攻の矛先を上野に向けたが、上杉旧臣である長野業正が善戦した為、捗々しい結果は得られなかった。しかし、業正が永禄4年(1561年)に死去すると、武田軍は後を継いだ長野業盛を激しく攻め、永禄9年(1566年)9月には箕輪城を落とし、上野西部を制圧することに成功した。

永禄3年(1560年)5月、武田氏の盟友であった今川義元が、織田信長によって桶狭間の戦いで討たれたことにより、今川家が衰退の兆しを見せ始める。このため、信玄は今川氏との同盟を破棄して駿河に侵攻しようと計画するが、義元の女婿である嫡男・武田義信とその傅役・飯富虎昌が激しく反対する。信玄は永禄8年(1565年)に飯富虎昌を切腹させ、永禄10年(1567年)10月には義信を廃嫡し、自殺に追い込んだ(病死説もあり)。

その上で、永禄11年(1568年)12月、三河の徳川家康と共同で駿河侵攻を開始する。今川軍も抵抗したが、松野山荻清誉を、薩垂山今川氏真軍を破り今川館へ入った。しかし、今川氏と縁戚関係にあった北条氏康が、今川氏の援軍に駆けつける。さらに駿河征服を企む家康も氏康と同盟を結んで信玄と敵対したため、北条・徳川連合軍と戦う不利を悟り、永禄12年(1569年横山城穴山信君を抑えに残し、4月に武田軍本体はひとまず甲斐に撤退した。

同年9月、信玄は2万の大軍を率いて、北条を叩くべく上野・武蔵相模に侵攻する。10月1日には小田原城を包囲するが、その4日後の10月5日には早くも包囲を解いた。北条は北条氏照北条氏邦等を武田軍の甲斐への退却路に布陣させ、小田原からは北条氏政らが出陣し挟撃する構えを取ったが、10月8日、三増峠において武田軍と北条氏照・氏邦軍が激突、武田軍が大勝した(三増峠の戦い)。

こうして北条氏康を抑えた上で、元亀元年(1570年)7月、再び駿河に侵攻し、完全に平定した。

甲相同盟

永禄11年(1568年)9月、足利義昭を奉じて織田信長が上洛を果たした。ところが信長と義昭はやがて対立し、義昭は信長を滅ぼすべく、信玄に信長討伐の御内書を発送する。信玄も信長の勢力拡大を危惧したため、元亀2年(1571年)2月、信長の盟友である徳川家康を討つべく、遠江国・三河国に侵攻する。信玄は同年5月までに小山城足助城田峯城野田城二連木城を落としたうえで、甲斐に帰還した。

元亀2年(1571年)10月3日、北条氏康が小田原で死去。後を継いだ嫡男の氏政は、「再び武田と和睦せよ」との亡父の遺言に従い、謙信との同盟を破棄して弟の北条氏忠北条氏規を人質として甲斐に差し出し、12月27日には信玄と甲相同盟を結ぶに至った。この時点で武田家の領土は、甲斐一国のほか、信濃駿河上野西部、遠江三河飛騨越中の一部にまで及び、石高はおよそ120万石に達した。

西上作戦

西上作戦を参照

永禄8年(1565年)、信玄と信長は東美濃の国人領主・遠山直廉の娘(信長の姪にあたる)を信長が養女として武田勝頼に嫁がせることで同盟を結んだ。その養女は男児(後の武田信勝)を出産した直後に死去したが、続いて信長の嫡男である織田信忠と信玄の娘である松姫の婚約が成立しており、徳川氏とは軍事的衝突を行いながらも織田氏と武田氏は引き続き同盟関係にあった。

元亀3年(1572年10月3日、将軍・足利義昭の信長討伐令の呼びかけに応じて信長との同盟を事実上破棄して、上洛するために甲府を進発した(ただし、信玄は信長に友好的な書状を送り続けるなど、なおも同盟を続行させるかのような行動を見せている)。約3万の全軍のうち、3千を秋山信友に預けて信長の領土・東美濃に、山県昌景に5千を預けて家康の領土・三河に、そして自らは馬場信春と共に2万の大軍を率いて青崩峠より遠江に攻め入った(これには後北条家の援軍2000も加わり、総勢は2万2000ともされる)。

信玄率いる本隊は10月13日只来城天方城一宮城飯田城各和城向笠城などの徳川諸城を1日で落とした。山県昌景軍は柿本城井平城(井平小屋城)を落として信玄本隊と合流し、秋山信友軍は11月までに東美濃の要衝である岩村城を落とした。

これに対して、信長は浅井長政朝倉義景石山本願寺一向宗徒などと対峙していたため、家康に3千人の援軍を送る程度に止まった。家康は10月14日、武田軍と遠江一言坂において戦ったが、兵力の差と信玄の巧みな戦術に敗れた(一言坂の戦い)。12月19日には、遠江の要衝である二俣城を陥落させた。

劣勢に追い込まれた家康、当初は浜松に篭城の構えを見せたが、武田軍の動きを見て兵1万1,000を率いて出陣、遠江三方ヶ原において、12月22日に信玄と一大決戦を挑む。しかし兵力の差、並びに信玄の戦術の前に大敗を喫し、徳川軍は多くの将兵を失い敗走した(三方ヶ原の戦い)。このとき、家康は馬で逃走する際に、恐怖のあまり馬上で脱糞したと伝えられている。

しかしここで盟友・浅井長政の援軍として北近江に参陣していた朝倉義景の撤退を知る。信玄は義景に文書を送りつけ(伊能文書)再度の出兵を求めたものの、義景はその後も動こうとしなかった。

信玄は軍勢の動きを止め刑部において越年したが、元亀4年(1573年)1月には三河に侵攻し、2月10日には野田城を落とした(野田城の戦い)。

信玄の死と遺言

信玄は野田城を落とした直後から度々喀血を呈するなど持病が悪化し、武田軍の進撃は突如として停止する。このため、信玄は長篠城において療養していたが、病状は一向に良くならず、4月初旬には遂に甲斐に撤退することを決意する。

4月12日、軍を甲斐に引き返す三河街道上で死去する、享年53。臨終の地点は小山田信茂宛御宿堅物書状写によれば三州街道上の信濃国駒場(長野県下伊那郡阿智村)であるとされているが、浪合や根羽とする説もある。戒名は法性院機山信玄。菩提寺は山梨県甲州市恵林寺

辞世の句は、「大ていは 地に任せて 肌骨好し 紅粉を塗らず 自ら風流」。

甲陽軍鑑』によれば、信玄は遺言で「自身の死を3年の間は秘匿し、遺骸を諏訪湖に沈める事」や、勝頼に対しては「信勝継承までの後見として務め、越後の上杉謙信を頼る事」を言い残し、重臣の山県昌景や馬場信房、内藤昌豊らに後事を託し、山県に対しては「源四郎、明日は瀬田に(我が武田の)旗を立てよ」と言い残したという。

信玄の遺言については、遺体を諏訪湖に沈めることなど事実で無いことが含まれおり(『軍鑑』によれば、重臣の協議により実行されなかったという)、信憑性に関しては軍鑑作者と言われる高坂昌信(春日虎綱)の意思が介在していることが指摘されている(柴辻俊六による)一方で、同時代史料で確認できるものある。

信玄の死後に家督を相続した勝頼は遺言を守り、信玄の葬儀を行なわずに死を秘匿している。駒場の長岳寺や甲府岩窪の円光院などには信玄の火葬地とする伝承があり、円光院では安永8年(1779年)に甲府代官により発掘が行われて信玄の戒名と年月の銘文がある棺が発見されたと言われ、死の直後に火葬して遺骸を保管していたと考えられている。

葬儀は、『甲陽軍鑑』品51によれば長篠の戦いの直前にあたる天正3年(1575年)4月12日に恵林寺で弔いが行なわれており、快川紹喜が大導師を務め葬儀を行なったという。上野晴朗はこれを「3年喪明けの葬儀で天正4年(1576年)4月16日に本葬を行なった」としているが、この記事を天正4年(1576年)の本葬の誤記であるとする説もある。

政策

家臣団

信玄は家臣との間の些細な諍いや義信事件など家中の動揺を招く事件に際しては忠誠を誓わせる起請文を提出させており、神仏に誓うことで家臣との紐帯が保たれていた。また、当時は男色(衆道)が男のたしなみと認識されていたが、信玄が春日源介(後の春日虎綱)に対して、浮気の弁明を記す手紙や誓詞(天文15年(1546年)武田晴信誓詞、ともに東京大学資料編纂所所蔵)が現存しており、家臣との交友関係を示す史料となっている。

領国統治

信玄期には信虎期から整備されて家一間ごとに賦課される棟別諸役が確立し、在地掌握のための検地も行われ領国支配の基盤が整えられた。

武田氏の本拠地である甲斐は平野部である甲府盆地を有するが、釜無川笛吹川の二大河川の氾濫のため利用可能な耕地が少なく年貢収入に期待ができなかった為、信玄期には大名権力により治水事業を行い、氾濫原新田開発を精力的に実施した。代表的事例として、甲府城下町の整備と平行して行なわれた御勅使川と釜無川の合流地点である竜王(旧中巨摩郡竜王町、現甲斐市)では信玄堤と呼ばれる堤防を築き上げ、河川の流れを変え開墾した。

日本で初めて金貨である甲州金(碁石金)を鋳造した。甲斐には黒川金山湯之奥金山など豊富な埋蔵量を誇り信玄期に稼動していた金山が存在し、南蛮渡来の掘削技術や精錬手法を積極的に取り入れ、莫大な量の金を産出し、治水事業や軍事費に充当した。また中央権門や有力寺社への贈答、織田信長や上杉謙信に敵対する勢力への支援など、外交面でも大いに威力を発揮した。但し、碁石金は通常の流通には余り用いられず、金山の採掘に関しては武田氏は直接支配を行っていた史料はみられず、金堀衆と呼ばれる技術者集団の諸権益を補償することによって金を得ていたと考えられている。

寺社政策では寺領の安堵や寄進、不入権など諸権益の保証、中央からの住職招請、法号授与の斡旋など保護政策を行う一方で、規式の保持や戦勝祈願の修法や戦没者供養、神社には神益奉仕などを義務づける統制を行っている。信玄は自身も仏教信仰を持っていたが、領国拡大に伴い地域領民にも影響力を持つ寺社の保護は領国掌握の一環として特定宗派にとらわれずに行っている。特に臨済宗恵林寺に対する手厚い保護や、武田八幡宮の社殿造営、甲府への信濃善光寺の移転勧請などが知られる。

しかし、これらの政策もさすがに戦費そのものを賄うほどのものではなかったようで、外征の際は人身売買を含めた大規模な略奪を伴い、参戦した国人はこういったことによって利益を得ていた(とはいえ、こういった略奪は農業を基本とした大抵の武将がやっていた)。

駿河を征服すると武田水軍の創設に尽力し、元亀2年(1571年)に間宮武兵衛(船10艘)、間宮造酒丞(船5艘)、小浜景隆(安宅船1艘、小舟15艘)、向井正勝(船5艘)、伊丹康直(船5艘)、間宮忠兵衛(船12艘、同心50騎)などを登用して、武田水軍を創設している。

人物

image:Image:Takeda Shingen statue.jpg
甲府駅前の武田信玄像

仏教の信仰は篤かったと言われている。しかし、信玄自身は在家出家しながらも俗世との関わりを絶たずにいるなど 仏教に背く行為がみられた。

このことに関して信憑性は今ひとつである『甲陽軍鑑』(元々信玄本人が著したのではないのと、成立が江戸初期という事で、徳川幕府の手が加わっている個所が多々見られる)の記述では、当時信玄が熱心に勉強していた『碧巌録』の10巻ある内の7巻までを信玄が参禅し終わった時、導師岐秀元伯に「あなたはこれ以上する必要はありません。武士である以上、悟りをひらいて俗世を捨てるという考え方はいかがなものか」と言われ、信玄本人は10巻までの参禅を希望したが、説得され7巻までにとどまったとされている。

当時の武士、特に国持ち大名と呼ばれる武士達と僧侶は繋がりが深く、多くの武士が出家しているが、国の情勢や家督問題、俗物的な思惑など様々な理由により悟りをひらくまでにはいたっていない。当時の有力寺社には僧兵神人と呼ばれる武装した下級の僧侶神職を抱え、女人に手を出し強盗紛いの行為に及ぶなど堕落し、俗世に関わり武装闘争をも辞さなかった。信玄は出家しこれ等宗教勢力の一員もしくは協力者ともいえる関係になることで、これ等の宗教勢力や一揆を扇動し、他の大名への牽制や戦力の分散をさせるといった狙いもあったとされる。『甲陽軍鑑』の中で信玄出家の理由の一つに、出家することで大僧正の地位を手に入れるといった目的もあったとの記述も見られる。また、本願寺の顕如の夫人如春尼と信玄の正室三条の方は実の姉妹である。このような事や家臣にも同様に出家したものが複数いることから、信玄個人だけでなく武田家は宗教勢力との関わりが深かったと言える。このように、形骸化したとはいえ本来あってはならない僧侶の婚姻を推し進めたり、信者を使って一揆を誘発したりしていたことから少なくとも純粋な信徒ではなかったようである。

肖像画

信玄の肖像画では、和歌山県の持明院所蔵の「絹本著色武田晴信画像」、高野山成慶院所蔵の長谷川等伯筆「絹本著色武田信玄画像」(重要文化財)が知られる。前者は信玄の供養のため奉納されたと伝わる肖像画で、青年期の晴信が侍烏帽子に直垂という武家の正装姿で描かれており、直垂には武田家当主・甲斐守護職であることを示す花菱紋が描かれている。後者は、勝頼が武田氏の菩提所である成慶院に奉納したと伝わる肖像画で、壮年期のふっくらとした姿で頭部にはがあり、足利将軍家家紋「二引両紋」のある太刀が描かれている。三条家とも関わりのある絵師・長谷川等伯によって描かれ、信玄正室の三条夫人の叔父を描いた「日堯上人像」と同時期に描かれている。同時代では、信玄は肖像画以外に不動明王のイメージで自らを描かせているが、イメージは不確定であった。江戸時代には『甲陽軍鑑』が流行し、法師武者姿で諏訪法性の兜をかぶったイメージが成立する。明治後半には後者の肖像画が「武田信玄像」として紹介されると大正から昭和初期にかけて定着し、甲府駅前や塩山駅前にある銅像のモデルにもなっており、歴史教科書においても採用されていたため信玄の一般的なイメージとなっている。近年は、

  • 39歳で出家し剃髪したにも関わらず、後鬢が残されている。
  • 服や刀の家紋が武田花菱紋でなく、二引両紋(足利・畠山)である。
  • (持病の)労咳や癌で死んだと言われる割には、身体がふっくらしている。
  • 右側に止まっているは、能登の鳥である。
  • 絵師は能登出身の長谷川等伯であることは間違いないが、この時期能登から出た形跡が無いこと。

などの疑問点から畠山義続ではないかという学説が出ている(藤本正行『武田信玄像の謎』。)最近の教科書では「絹本著色武田信玄画像」は使われておらず「持明院蔵」の肖像画が使用されている。現在、NHKやフジテレビでは「絹本著色武田信玄画像」は使われていない。しかしながらどちらも推測の域を出ないものであり、今後の実証的研究が待たれる所である。

名言

  • 人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇は敵なり(どれだけ城を堅固にしても、人の心が離れてしまったら世を治めることはできない。情けは人をつなぎとめ、結果として国を栄えさせるが、仇を増やせば国は滅びる)」
この言の通り、信玄はその生涯の内一度も甲斐国内に新たな城を普請せず、堀一重の躑躅ヶ崎館に住んだ。但し、後背には詰めの城である積翠寺城があり典型的な戦国武将の居館ともいえる。また、この言葉は後世の創作であるとも言われるが、能く信玄の理念を顕しているとも言われる。
  • およそ軍勝五分をもって上となし、七分をもって中となし、十分をもって下と為す。その故は五分は励を生じ七分は怠を生じ十分は驕を生じるが故。たとへ戦に十分の勝ちを得るとも、驕を生じれば次には必ず敗るるものなり。すべて戦に限らず世の中の事この心掛け肝要なり
勝者に驕りが生じることを戒めた言葉。信玄死後、連戦連勝を重ねた勝頼が長篠で一敗地にまみれたことを重ねると、実に説得力のある戒めであるが、そもそも甲陽軍鑑の脚色とする説もある。
  • 為せば成る、為さねば成らぬ。成る業を成らぬと捨つる人のはかなさ」(現在では米沢藩主・上杉鷹山の言葉としての「為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり」の方が良く知られているが元々は信玄の言葉である)

風林火山

風林火山は、孫子に記された「其疾如風 其徐如林 侵掠如火 不動如山(その疾(はや)きこと風の如く、その徐(しず)かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し)」(さらに「知り難きこと陰の如く、動くこと雷震の如し」と続く)という語句を略したものである。信玄もこれをもとに軍旗に「疾如風徐如林侵 掠如火不動如山」と書いて戦った。また、その軍旗は恵林寺の住職快川紹喜の書と伝わり、武田神社に現物が収蔵されている。

逸話

  • 信玄は鉄砲の威力を過小評価していたと言われるが、それは事実ではない。天文24年(1555年)の段階で鉄砲を300挺以上も所有していたと言われる。妙法寺記の天文24年の項に「旭の要害(旭山城)へも武田晴信(武田信玄)公人数三千人(中略)鉄砲三百挺入候」とある。天文24年は鉄砲が伝わって12年後であり、当時、長尾景虎(上杉謙信)と敵対していた最前線の旭山城にだけ300挺も鉄砲を入れたとなると、武田軍全軍では500挺近くは有していたのではないかと推測される。これほど早い段階にこれだけの鉄砲を有していたことは驚異的であるが、甲斐は美濃や尾張に較べると中央にほど遠い後進地域であり、後に織田信長が堺や近江国友などを支配下において鉄砲を独占したことから、武田軍は騎馬隊や石礫隊の編成を重要視せざるをえなかったものと思われる。
  • 信玄の生涯戦績は72戦49勝3敗20分けである。引き分けが多い(約27.8%)のが特徴であるが、一度引き分けた場合でもその後には必ず相手を陥れており、勝率と分率を合わせると約95.8%に達する。敗率はわずか4.2%である。「およそ軍勝五分をもって上となし、七分をもって中となし、十分をもって下と為す」の言葉に表れているように、完全勝利を追求するよりも負けない戦いを心がけていたことがうかがえる。当時最新の兵器であった鉄砲を日本一多く所有していたと思われる織田信長の敗率が約18.6%にも達している(156戦113勝29敗14分)ことを考えれば、驚異的な数字である。武田軍の強さは、長篠の戦いで大敗した後も、信長の支配地域において「武田軍と上杉軍の強さは天下一である」と噂されるほどのものであった(大和国興福寺蓮成院記録・天正十年三月の項を参照)。
  • 躑躅ヶ崎館に、水洗トイレを設置している。躑躅ヶ崎館の裏から流れる水を利用した仕組みで信玄がひもを引いて鈴を鳴らすと伝言ゲームのように配置された数人の家臣に知らされていき上流の者が水を流す仕組みである。信玄はここをと言う名称で呼んでいた。家臣が「何故、厠を山と言うのでしょう?」と尋ねた所、信玄は「山には常に、草木(臭き)が絶えぬから」と機知に富んだ回答をしている。トイレと言ってもかなり広く、室内には机や硯も設置されていた。信玄はここで用を足しながら書状を書いたり作戦を考えていた。
  • 甲陽軍鑑によると、信長から小袖が贈られた時に、信玄はそれが入れられていた漆箱の方に目をつけそれを割るなどして調べると、それは漆を何度も重ね塗りしたものでありその丁寧さから「これは織田家の誠意の表れであり、武田家に対する気持ちが本物だ」と言った事から、信長の真意はともかく細かい所にも気をつける性格だったようである。
  • 信玄は、かなり前から病を患っていたものと思われる。信玄ははじめ上洛を開始する日時を10月1日としていたが、それを10月3日まで先延ばししたのは、信玄の病が一時的に悪化したためと言われている。
  • 信玄は情報収集を重要視し、「三ツ者」と呼ばれる隠密組織を用いて、情報収集や諜報活動を行なわせたと言われている(甲陽軍鑑では三ツ者のほか、素破とも表現されている)。また、身寄りの無い少女達を集めて忍びの術を仕込ませ、表向きは「歩き巫女」として全国に配備し諜報活動を行わせたという。信玄が戦争に常に勝利し続けたのは、常にこういった情報収集が素早かったためと言われている。このため、信玄は甲斐に居ながら日本各地の情報を知っていたことから、まるで日本中を廻っていたかのような印象を持たれ「足長坊主」と異称された。しかし、甲陽軍鑑の歴史資料としての信憑性は他の資料との比較から疑問視されており、この様な事を本当に行っていたかどうかは疑問である。
  • 上洛のとき、「甲陽軍鑑」において、次のようなことを信玄自らが述べたという記述がある。
遠州・三河・美濃・尾張へ発向して、存命の間に天下を取つて都に旗をたて、仏法・王法・神道・諸侍の作法を定め、政をただしく執行はんとの、信玄の望み是なり
  • 元亀2年(1570年)の織田信長による比叡山延暦寺焼き討ちの際、信玄は信長を「天魔ノ変化」と非難し、比叡山延暦寺を甲斐に移して再興させようと図った。このため、元亀3年(1572年)に信玄は比叡山延暦寺の生き残った高僧から、大僧正の地位を与えられている。
  • 信玄にとって甲斐から京都へ上洛する距離は、当時としてはかなりの遠隔地だったため、上洛は難しいとされていたと言われる。実際、織田信長の美濃・尾張に較べると甲斐は後進地域であるうえ、山国でもあるために行軍も難しかった。信長が信玄に先んじて上洛した際、当時の俳諧書である犬筑波集では、次のように揶揄する句が記されている。
「都より甲斐への国へは程遠し。おいそぎあれや日は武田殿」
  • 信玄は生涯で同盟を破った事は多く、諏訪、織田、今川、徳川(結果的には北条)などがあげられる。そのため外交における信用がほとんどなく、勝頼の代となって上杉と同盟を結ぶ際にその事を指摘されている。
  • 信玄は上杉謙信を上杉姓で呼ばなかったが、これは甲斐守護の武田家と越後守護代の長尾家の格式の差による。長尾家が関東管領として上杉姓となると、格式が逆転したため、面白くなかった信玄は、最期まで長尾姓のままで呼び続けたという。

研究

死因

死因に関しては、侍医御宿監物書状(戦国遺文2638号)にみられる持病の労咳肺結核)、肺炎、『甲陽軍鑑』による胃がん若しくは食道癌による病死説が有力である。

徳川勢の鉄砲弾による傷が原因との説があり、武田軍が三河国野田城を攻囲中、信玄が城中から聞こえる笛の音に惹かれてやってきたところを狙撃され負傷したのだというが俗説である。これは「松平記」など徳川方の史料だけにしか見解が無いため、恐らくは信玄を討ち取ったという手柄を徳川一族のものにしたいという創作ではないかとされている。また、近代には地方病として蔓延した日本住血吸虫病による体力の低下という説もある。また、織田信長ヒ素で毒殺されたとする説もある。

父の追放について

近年、信玄は老臣の操り人形で、父追放は甲斐の有力国人衆のクーデターだという説がある。その理由に、信玄が16歳にて初陣に出たと言う輝かしい日に、駒井高白斎は日記に、今川家の家督争いを書いている。なお学会の見解としては20歳にて初陣に出たという意見で一致しているが、これは戦国大名としては遅すぎるので、このような説が出たと思われる。

また、板垣信方が主君の意向を無視した行動をたびたび起こしていることもこの説の信憑性を強めている。このことから信玄の支配確立は上田原の戦い以降だと述べる識者もいる。

武田菱

武田菱は、甲州武田家の家紋である。菱形を4つ合わせた形状であり、知名度が高い。旧甲斐国の山梨県では、甲府駅から一般家屋に至るまであらゆる場所に武田菱が見られる。また山梨県警機動隊の車両などの装備品にも用いられている。

なお、皇居で行なわれる新年一般参賀や天皇誕生日の一般参賀において使用される宮殿・長和殿のベランダ(天皇皇族らが立つ位置)周辺に武田菱と同じ紋様が存在するが、これは古くから宮中の調度、装束に用いられているもので、甲州武田家とは無関係である(宮内庁広報係の回答より)。

後世への影響

image:Image:Takeda24syou.jpg
武田二十四将

武田家は勝頼の代で滅亡しているが武田家の遺臣は徳川氏によって保護され、武田遺臣のなかには幕府に仕えて活躍したものもいる。また、甲斐では村落に居住しつつも武田旧臣に由緒を持ち特権を保持していた武田浪人が存在していた。

江戸時代には『甲陽軍鑑』が流行し、信玄時代の武田家の武将達の中で特に評価の高い24名の武将を指して武田二十四将(武田二十四神将)と言われるようになり、信玄の名は広くしられることになった。原典は江戸時代に作られた浮世絵浄瑠璃で、正式に武田家中で二十四将と言う区分や呼称は存在しない。選ばれた武将達も時代は離れており、全員が同時期に信玄に仕えていた事は無い。庶民の評価で決まったものらしく、資料によっては顔ぶれが異なる。なお、この種の群像では主君を入れないのが一般的だが、武田二十四将には家臣が23名しか入らず、信玄自身が二十四将の一人に数えられていることが最大の特徴である。

江戸時代には信玄の治世や軍略を中心とした『甲陽軍鑑』が成立し、これを基に武田家や川中島合戦を描いた文学がジャンルとして出現した。また、一円が幕領支配となった甲斐国においては大小切税法甲州金甲州桝の甲州三法に象徴される独自の制度を創始した人物と位置づけられ、崇められるようになった。

明治には信玄のイメージが広く定着するが、江戸期を通じて天領であった山梨県においては信玄は郷土史の象徴的人物と認識されるようになり、戦前には内務省武田神社別格官弊社への昇格条件に信玄の勤王事跡の挙証を条件としていたこともあり、郷土史家により信玄を勤王家と位置づける研究も見られた。戦後には、英雄史観皇国史観を廃した実証的研究が中世史や武田氏研究でも行われるようになり、昭和62年には武田氏研究会が発足し、磯貝正義上野晴朗笹本正治柴辻俊六平山優秋山敬らの研究者が出現し、実証的研究や武田氏関係史料の刊行を行なっている。

戦後には産業構造の変化から観光が山梨県の主要産業になると、観光事業振興のもと信玄は県や甲府市によって歴史的観光資源となる郷土の象徴的人物としてより位置付けられた。信玄の命日にあたる4月12日の土日には時代行列「甲州軍団出陣」を目玉とした都市祭礼である信玄公祭りが開催されており、また山梨の日常食であったほうとうが「信玄の陣中食」として観光食としてアピールされるなど、観光物産に関わるさまざまな信玄由来説が形成された。

系譜

清和源氏の中の河内源氏系の新羅三郎義光を祖とし、代々甲斐守護を務め甲斐源氏と呼ばれる武田氏の第19代当主に当たる。武田家は源平時代には武田信義が(源頼朝源義仲と共に)平清盛討伐の命令を受けるなど、古くから武力に秀でていた。

信玄の正室・側室は上杉朝興の娘、三条公頼の娘・三条の方(または三条夫人)のほか、諏訪頼重の娘など。多数の正室・側室がいたとする説もあるが、史料にて確認できるのは、上杉の方、三条の方、諏訪御料人禰津御寮人油川夫人の五人である。ただ、禰津御寮人の子と言われる武田信清の出生時期が極めて遅いこと、信玄の七女が母親不詳なこと、上記三人以外の側室の墓が残されていることからほかに側室がいた可能性が高い。なお、新田次郎の小説『武田信玄』の作中人物あかねの方は上記の事情から着想された人物である。現在の武田家臣の子孫には『三枝家』が有名である。

参考文献

  • 『武田氏研究』(武田氏研究会)
  • 磯貝正義『定本武田信玄』(新人物往来社、1978)
  • 奥野高広『武田信玄』(吉川弘文館、1980)
  • 笹本正治『武田信玄』(中央公論社、1997)
  • 笹本正治『武田信玄』(2005、ミネルヴァ書房)
  • 柴辻俊六『武田信玄合戦録』(角川書店、2006)
  • 柴辻俊六『信玄の戦略』(中央公論新社、2006)
  • 平山優『武田信玄』(吉川弘文館、2006)
  • 『よみがえる武田信玄の世界』(山梨県立博物館、2006)
  • 鴨川達夫『武田信玄と勝頼』(岩波書店、2007)

関連項目

ウィキクォート武田信玄に関する引用句集があります。
  • 楯無(武田家の家宝)
  • 諏訪湖
  • 武田神社
  • 設楽貞通
  • 田村怡与造
    明治期の陸軍軍人。優れた戦略家であると評され、山梨出身であることから「今信玄」と呼ばれた。
  • 金丸信
    戦後政治家。武田氏の一族である金丸氏の子孫。中央政界や県政において影響力を持ち、全盛期には信玄にたとえられた。
史料
小説
映画
テレビドラマ
漫画
ボードゲーム
上田原の戦い川中島の戦い三増峠の戦いの3シナリオ。

外部リンク


先代:
武田信虎
甲斐武田氏当主
第19代:1541 - 1573
次代:
武田勝頼

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2008年4月8日 02:04 版 改訂履歴
Text is available under GNU Free Documentation License.
GNU Free Documentation License 1.2 Powered by MediaWiki