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手塚治虫

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手塚 治虫
本名 手塚 治
生誕 1928年11月3日
image:Image:Flag of Japan.svg 大阪府豊能郡豊中町
死没 1989年2月9日(60歳没)
国籍 日本
職業 漫画家アニメーター医師
代表作 ジャングル大帝
鉄腕アトム
リボンの騎士
ブラック・ジャック
アドルフに告ぐ
火の鳥
公式サイト Tezuka Osamu@World
  
image:Image:Logo serie manga.png
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手塚 治虫(てづか おさむ。初期のみおさむしと読ませた。本名:手塚 治1928年昭和3年〉11月3日 - 1989年平成元年〉2月9日)は、日本漫画家アニメーター医師大阪府豊能郡豊中町(現在の豊中市)に生まれ、兵庫県宝塚市育ち。医学博士学位を持つ。戒名は伯藝院殿覚圓蟲聖大居士。日本のテレビアニメの先駆者、漫画の神様と呼ぶ人もいる。

目次

概要

日本における本格的ストーリー漫画、そして今日における二次元産業の開祖と言われる。しばしば舞台劇的だった漫画を映画的に変革したとも評されるが、日本でも第二次世界大戦前から赤本漫画の世界で、映画的にコマ割りされた漫画は存在していることが指摘されており、すべてを手塚が発案したわけではない。戦時中の1938年内務省から「児童読物ニ関スル指示要項」が出され、10年近く表現規制がなされていたため、戦後の少年たちにとって手塚治虫の『新宝島』の登場は衝撃的だったのである。そして、この衝撃は藤子不二雄トキワ荘グループに共有され、彼らが語り、また自伝に記したりすることで、1970年代から漫画ファンの間に流布され、神話化していったという[1]

医学生時代から、漫画家として活動を始めた。漫画家という職業の社会的な評価が大変低かったこともあり、漫画家と医師との二足の草鞋を履くことも考えたが、母の「好きなことをやりなさい」という言葉で専業漫画家の道を選んだエピソードはよく知られている。この他に、担当教官に医者よりも漫画家に向いていると言われた、血を見るのは苦手だった、などといった話も伝わっている。

1947年に発表した『新宝島』は、漫画に映画的(スペクタクル)な表現を導入した先鋭な作品であり、藤子不二雄、石森章太郎(後に石ノ森章太郎改名)ら後進に極めて大きな影響を与え、現代日本における漫画アニメの基礎が築かれる過程で大きな役割を果たした。

中央での大手出版社の月刊少年誌に掲載される漫画は当時は4ページから6ページ程度だったのに対して、関西赤本漫画界を出発点にした手塚は100ページ以上のストーリー漫画を描き下ろしてヒットを飛ばした。その後、2年間で12本の赤本漫画を描き下ろした中央の漫画界に進出する。手塚は、複雑な内面を持ったキャラクターによる、悲劇もありうるドラマチックなストーリーを作品に導入し、ただ面白おかしいだけの漫画ではない、戦後の現代的な漫画の原点を築き上げた人物である[2]。現在でも、生前の功績から第一人者として「マンガの神様」の異名で崇められている(詳細は後述)。

1954年には専門誌『漫画研究』にアシスタントの求人広告を出し、プロダクション形式を採って大量のアシスタントを雇って作業を分担させ、ひと月に100ページを超える執筆を可能にした。手塚以前にアシスタントを使った漫画家は皆無ではないが、このような大々的なプロダクション形式をとったのは、寺田ヒロオ藤子・F・不二雄(藤本弘)によれば、日本では手塚が最初である。この手法が用いられたことにより、週刊少年サンデーのような週刊漫画雑誌の刊行が可能になった。この週刊連載化は、多くの漫画家にとって過酷な生活を強いられる原因ともなっており、下記に挙げる「アニメの功罪」と合わせて、手塚への批判の一つになっている。

アニメ制作プロダクションを立ち上げ、日本初のテレビ放送用の連続アニメーション番組『鉄腕 アトム』を制作した。手塚の手法やビジネスモデルは、後の日本製アニメの制作に(良くも悪くも)大きな影響を与えた。

それまで政治風刺などの一コマ物が多かった日本漫画界に新地平を切り開き、「マンガの神様」と呼ばれる(一方、手塚本人はウォルト・ディズニーをそう呼んでいる)。

治虫(おさむし)というペンネームは昆虫のオサムシからとったものだが、「〜氏」等を付けると「オサムシシ」になってしまうため、読み方を本名の「オサム」に変更したという。デビュー作『マアチャンの日記帳』の紹介では、手塚が編集者にペンネームの読み方を伝えていなかったため、「はるむし」という振り仮名が付けられたこともある。

経歴

年表

先祖

手塚の曽祖父にあたる手塚良仙適塾に学んだ蘭方医であり、1857年東京種痘館(現在の東京大学 医学部の前身)を設立したグループの一人でもある。その生涯は『陽だまりの樹』でフィクションを交えつつ描かれ、適塾の頃は福澤諭吉福翁自伝』に記録が残る。幕府歩兵隊附軍医から、明治陸軍の軍医に任官する。明治10年、西南戦争に出征。長崎陸軍病院に勤務中、赤痢に感染し戦病死した。死亡時の階級は軍医(のちの一等軍医、大尉相当官)であった。

更には、祖父にあたる手塚太郎は司法官であり、1886年に創立された関西法律学校(現関西大学)の創立者の一人である。大阪地方裁判所検事正から名古屋控訴院検事長、長崎控訴院長などを歴任している。

生年

生前、プロフィールにおいて1926年(大正15年)生まれ、大阪大学医学部卒と称していた。その理由については、下記に挙げる、複数の説がある。

  1. 初期の担当編集者が誤って紹介したものを訂正せずにそのまま使った[要出典]
  2. 月刊誌時代の少年雑誌の他のマンガ家がみな年長だったため。馬鹿にされないため[4]
  3. 読者から医学専門部卒を隠すため(臨時医専は3年制で旧制中学校を卒業して入学すれば21歳で卒業、旧制大阪大学医学部卒と称する 為には生年を早める必要があった)[要出典]

手塚の葬式場で享年を見るまで、実年齢を知らなかった親友すら大勢いた。訃報記事の生年は誤記ではないかと思ったファンも大勢いた。

デビュー時の『少国民新聞』の紹介では「大阪帝国大学医学専門部」「十九歳」と明示があり、年齢が2つずれているのは中央での月刊誌デビュー前の頃からだということが分かっている。この紹介文は、『少国民新聞』編集部の文責で掲載された(ただし、正月早々に掲載されたこの紹介文の文面では「十九歳になったばかりで」とあり、当時一般的に用いられていた数え年による表記とも考えられる。その場合、1928年11月生まれの手塚は1946年の正月で19歳となり、正しい年齢表記であったことになる。もしそうだとすると、一般に使われる年齢表記が数え年から満年齢に切り替わったことを利用して、年齢を偽った可能性もある)。

手塚自身が影響を受けたもの

アニメへの心酔

1945年、空襲で焼け野原となった街の焼け残った映画館大阪松竹座)で、『桃太郎 海の神兵』を観た時に、「アニメーションをやってみたい」と初めて思ったという。但し、それ以前から映画には親しむ環境にあった。宝塚の生家には写真好きの父親が購入した家庭用映写機もあり、戦争が激化するまでは、父の買ってきた映画やディズニーのミッキーマウスの漫画映画を見ることができた。小学校高学年の頃には映画撮影機を用いて、自分でアニメーションの撮影を試みた事もある。連続するように1枚ずつ作画した画用紙を縁側から撮影したが、自然光で光量が安定しないうえに動画には紙が足りなくなり限界を実感したという。

戦前から日本では『フィリックス』『ベティ・ブープ』などの多くのアメリカ製アニメが映画館などで上演されていた。しかし、太平洋戦争によってアメリカに返却できなくなったものが神戸港に集積し、これを個人的なツテによって手塚が入手していたと言われている。

1947年昭和22年)8月、上京した際、世田谷区三軒茶屋にあった動画プロダクション「芦田プロ」(芦田漫画研究所)の求人を見て応募するが、このプロダクションの芦田巌社長ににべもなく断られた。

1961年(昭和36年)春、なおも諦め切れない手塚は、うしおそうじを頼り、「本格的にアニメーションをやる決心をした」として、うしおとともに再度芦田社長の元を訪ねる。しかし芦田は今回も、30分に渡る手塚の懇願も空しく「あんたのように漫画でやっていけている人には割が合わない仕事だから、この世界には来ない方がいい」との受け答えで取り合わず、断念に至った。

手塚自身は非常に映画が好きで、年に365本を見たこともあるという。特にディズニー作品については「『バンビ』80回、『白雪姫』も50回は見た」と言うほどフル・アニメーションに心酔していた。また、手塚は漫画生活の最初期(旧制小学校2年生ごろ)において、ミッキーマウスの模写もおこなっており、ディズニー作品は後の手塚のアニメ作品や漫画作品に大きな影響を与えた。さらに手塚の『三つ目がとおる』の主人公写楽保介の造形についてみずからワーナー・ブラザーズのアニメーション『ルーニー・テューンズ』に登場するエルマー・ファッドの写しであると漫画全集のあとがきで述べており、ディズニー以外のアメリカのアニメーション番組もよく見ていたことが伺える。

虫プロの設立

手塚作品『ぼくのそんごくう』が『西遊記』として東映動画(現、東映アニメーション)でアニメーション映画化された際に、手塚もスタッフの一員に加わった。しかし、東映動画のスタッフとの間で意見の違いがあり、手塚自身が思い描いたものとは異なる作品となった(下記の大塚康生宮崎駿のコメントも参照)。手塚は1961年、自力でアニメーション専門の「手塚動画 プロダクション」(後の虫プロダクション)を設立。日本初の30分シリーズテレビアニメーション番組の『鉄腕アトム』の制作を指揮 した。極めて低い単価でアニメーション制作を請け負い、製作資金の足りない分をグッズ販売の版権料や海外輸出で補うという手 法は手塚が編み出したものである。グッズ販売で収益を得るという手法は、ディズニーに倣った(アトム以前は、漫画キャラクターのグッズの生産時に原作者にお金を支払うという概念は日本には無かった)。

更にアニメ制作費の不足分を、グッズ販売等だけではなく、漫画家としての収入を注ぎ込むことにより補おうとしていたという説も存在する。

この他、制作費を低く抑える方法として「バンクシステム」と呼ばれる、撮影フィルムの使い回しや静止画の多用も、この時に始めた。作品として絵は当然粗くなるが、これは魅力的なストーリー展開で補おうとした。手塚は「バンクシステムには批判もあるが、日本でもアニメのテレビ放映が可能だと知らしめるための挑戦、実験だった」と自己弁護したことがある。これらの手法はその後の日本製アニメの規範となった。

ただし、手塚本人は製作料を安く請けたのは「失敗」だったと後述している。現在に至るも日本のアニメ産業の現場が経済的に潤わないのは、始祖である手塚の罪だとして非難する声は多い(手塚の提示した安すぎる制作費が慣例として残ってしまった[要出典])。

また製作料を安く請けたのは他者の参入を困難にしてテレビアニメ製作を独占したかったからではないかとの説もある。 虫プロダクションの元営業部次長・須藤将三氏は「(一本につき)五十万で売って。それ以上高くしないでください。それなら他でつくれないでしょ。」[5]と言われたそうである。

なお、実際の『アトム』の制作費については上記の須藤氏や、彼を含めた関係者への聞き取りと文献の再調査を行った津堅信之は「当初は1本155万円が代理店より支払われていた」としている。津堅によると、その後も制作料は少しずつ引き上げられており、「虫プロは確実に経営努力を実施して、かつ結果を得ている。「『アトム』を五十五万円で作ったから、その後のアニメ制作環境が悪くなった」という評価がいまだにあるとすれば、短絡的であると言わざるを得ない。」と指摘している[6]

アニメーターの大塚康生は、手塚が一方で理想のアニメに憧れながら、それを成し遂げることが出来なかったのは、商業主義のためではなく、手塚がアニメの技術について無知だったからだ、という意見を述べている。

「演技設計やアニメートに無関心では優れたアニメーションになる筈がなかったように思います。実際、手塚氏はフルアニメーションの基礎技術をディズニーなどの先達に学んだ形跡がなく、ろくにアニメーターの養成もせずに漫画的なリミテッドから出発している点も実に不思議です」[7]

「『あのくらい、ぼくでも出来る』といった手塚先生の過信が、真摯な生徒として一から学ぶには遅すぎたともいえましょう。」[8]

1971年に「虫プロ」社長を退任。1973年に「虫プロ」が倒産すると、その後は「手塚プロダクション」で実験的な超短編作品 やアニメ制作をおこなった。1978年から日本テレビで放映開始となった『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』では、目玉企画として手塚治虫アニメ長編『100万年地球の旅バンダーブック』を放映。その後も年1回の同番組における名物となり、手塚 の死(1989年)に至るまで続く人気コーナーとなった。

手塚のアニメ制作についての詳細は、虫プロダクション手塚プロダクションの項目も参照のこと。

スランプと批判

1960年代後半、レインボー事件、W3事件と、手塚のマンガやアニメの企画が、他者のものと類似しバッティングするようになる。手塚はこれを、誰かが企画を漏洩させていると猜疑し、虫プロから豊田有恒を追い出し、週刊少年マガジンに『宇宙少年ソラン』の連載中止を迫るなど、周囲に深刻なトラブルを起こすようになる。

スポ根漫画や劇画が人気だった時代は、手塚にとってはスランプの時期であった。手塚らしくない駄作を輩出し、虫プロ倒産の前後には「既に終わった作家」という見方もされていた。手塚がプライドを捨て自ら出版社に出向いて営業する場面もあった。手塚の特徴である丸っこい絵柄、練り込んだストーリー展開、ヒューマニズム色の濃い世界観など、いずれも時代遅れと見なされていた。後に名作といわれる『ブラック・ジャック』も、開始時にはヒットを予想する者はいなかったと言われ、「手塚先生の死に水を我々が取ってあげよう」という編集部側の意向もあった引退作品的な短期連載として開始されたものであるという[9]

なお、同業者への強い対抗心を示していた。例えば、「パーティー会場で会った時に俺も言われた」と水島新司は手塚の没後に発言している。手塚が水島に言ったのは「君はいいね、(野球の)試合ばかり描いていればよくて」というものだった[10]

家族

妻は手塚悦子(えつこ)。1999年に夫、手塚治虫に関する本を執筆している。映像作家の手塚眞(本名は真)は長男・長子。プランニングプロデューサー・地球環境運動家の手塚るみ子は長女・中子。舞台女優の手塚千以子(ちいこ(『千夜一夜物語』から命名))は次女・末子。

仕事があまりにも忙しく家族揃って食事をすることはほとんど無かったらしい。家族ではないが、手塚のに、声優松山薫がおり、手塚作品では、「手塚治虫の旧約聖書物語」の吹き替えをした。長男・眞の妻は漫画家の岡野玲子

晩年

遺作となったネオ・ファウスト第2部第3話の下書き部分における最期の言葉に「誰なんだ!!」とあり、手塚が遺した最後の漫画である。おそらく主人公・坂根第一が発していたと考えられている。最期の言葉は「仕事をする。仕事をさせてくれ。」仕事に仕えたいという思いがあった。

2003年から約2年ほど手塚の作品だけを集めた雑誌「手塚治虫マガジン」がKKベストセラーズから刊行されたこともあるが、部数の関係上、無期限の休刊となった。後にこの手塚治虫マガジンプロジェクトは2007年になり、「自分が編集長」となって数ある手塚作品の中から自選した作品を収録できるという非常に珍しい試みを採って「手塚治虫O(オンデマンド)マガジン」として復活することとなる。余談だが、藤子不二雄藤子・F・不二雄)作のドラえもんのある話[11]では「一人だけの漫画雑誌なんて聞いた事も無い」と言った発言が載っていたことがある。

作家活動

作風

多彩な作品を残しているが、人間の負の側面と、それによってもたらされる悲劇を好んで描いた作家である。前半の作品に多く見られる「対立」(同種族どうし、人間と異星人、人間と機械など)というテーマは、手塚が学生時代、GI(アメリカ軍兵士)に英語で話しかけたがうまく通じず殴られた体験が元になっている(後に渡米した時に英語圏で英語を話せない人も多いと知り、先の体験からくる感情は雲散霧消した)。

  • ライフワークの『火の鳥』シリーズ
    • 人間の救いようの無い暗黒面が積極的に取り上げられ、そこから来る深い絶望のなかにもたらされる一筋の光明を描くことによって、陰影の濃い作品世界を作り出している。
  • 鉄腕アトム』と科学について
    • 通俗的評価では科学技術に対する希望と信頼を描いたとされがちだが、科学技術によって悲劇的な結果を生み出してしまったエピソードを数多く描いている。アトム以外にも科学技術の乱用による悲惨な結末を描く作品は多い。
    • 一方で、アトムがあまりに有名だったためか、無断で原子力発電のプロパガンダに使われたことがあり、広瀬隆が批判的に取り上げたことがある。手塚本人が「一切かかわっていない。勝手に使われたので抗議した。その後、先方からの連絡はない」と、漫画専門誌の取材[12]に答えたのを受けてか、のちの広瀬隆の書籍などからは糾弾部分が外されている。
  • 武器や兵器などにフェティッシュな思い入れがなく、女性を意思のある主体として描く点が、(戦前生まれの)男性としては稀有な感性の持ち主と評される事(荷宮和子ら)がある。殊更に女性的という訳ではないが、変態(生き物が形態を変えること)や性転換異性装、中性的な物に対する憧れが作品の各所に見られる。手塚はこれらを「エロチシズム」と表現して いた。
  • 手塚の死の翌年の1990年、手塚作品に登場する黒人の描写が差別的だとして「黒人差別をなくす会」という団体が抗議する事件があった。以後、手塚漫画の単行本には、差別描写について弁明した但し書きが付けられるようになった[13]
  • 著書、「マンガの描き方」の中で、作者インタビューの「マンガとはなんですか?」という質問に、「風刺ですよ」と答えている。

技術と才能

漫画家の石坂啓(手塚の元アシスタント)はテレビ番組で「手塚先生は天才です。通常なら鉛筆などで下書きをした上にペン入れをするのに、手塚先生はいきなりペンで描き始めるんですから」と証言したことがある。

フリーハンド(手書き)でかなり正確な円を描けた。また、揺れるタクシーの中や飛行機の中でもかなり正確な直線を引けた。なお、逝去前年、林家木久蔵(現・木久扇)に「木久蔵さん、僕はね、丸が書けなくなった」と体調の不良を語っている 。丸を描くと目に見えて指先が震えていたのだという。その一方で「僕は人体が正確に描けないんですよ」と述べるなど、デッサン力についてコンプレックスを持っていた。

60年という生涯で非常に多数の作品を残しているが「頭の中には描きたいことがまだたくさんある。描いている時間がないだけで、アイデアはバーゲンセールをしても良い程ありますよ」と述べている。手塚が宝塚の実家で原稿を描き(ペン入れのみ)、航空便で送られてくる原稿に東京でアシスタントが彩色するという段取りになったことがある。インターネットはもちろんファックスも無い時代ゆえ、色の指定は非常に困難なはずだった手塚は電話で「この部分はこの色を一重の濃さで、次のこの部分はこの色を四重の濃さで……」など、事細かに言葉で指示した。ペン入れ原稿のコピーを取っているのではなく(家庭用コピー機など無い時代)、頭の中に記憶している絵柄を元に指示するしかなかったが、指示は的確だった。出来上がった作品が間違った色で塗られていると、後で手塚はそれをちゃんと指摘した[14]。その他にも、アシスタントに参考資料を調べさせるのに、「この棚にある、あの本の何ページ目あたりに記述があったから」などと指示をする等、超人的な記憶力があったという。

他の作家との関係

福井英一

生前の手塚が自ら、福井英一を「ライバル視していた」と認めていた。手塚が描けないスポーツ漫画(『イガグリくん』)をヒットさせたことが焦りを生んだのか、手塚は自らが連載していた『漫画大学』の中で「よくない例」として福井作品を模した絵を描き、これに福井が抗議して、馬場のぼるの仲介で謝罪したこともある(『漫画大学』の作中でも登場人物に詫びさせている)。その後、福井は過労で急逝するが、手塚はそのとき内心ほっとしたという感情に見舞われ、そのことに後でぞっとしたと書き記している[15]

水木しげる

妖怪のジャンルが流行すれば、対抗し『どろろ』を発表した[16]水木しげるはある出版社パーティーの席で後の方で地味に飲んでいたら全く面識のなかった手塚が突然やってきて、自己紹介もそこそこにいきなり「あなたの絵は雑で汚いだけだ」「あなたの漫画くらいのことは僕はいつでも描けるんですよ」と言い放った。水木は、その場では全く反論せず、言いたいように言わせていた。そして黙って帰った後、短編『一番病』[17]を描き上げる。水木マンガによく登場するメガネの主人公、「自分が世界で一番で無ければ気がすまない棺桶職人」が他人を追い落とさんがために体を酷使し周りから心配されるが「一番病に取り付かれた者にとってそれは苦しみではなく、最大の楽しみなのである」という話。

また宝塚ファミリーランド遊園地)にて、鬼太郎アトラクションを開催していた事に対し、手塚は「私の故郷の宝塚で勝手なマネをするな」と“難癖”と取られても仕方がない発言を行ったそうである。「でもそんなこと言われてもね、私だって困ります」 (水木談)[18]

他方では、互いへの肯定的な表現もしばしば見られる。例えば、手塚の「火の鳥」のなかに、水木の代表的なキャラクターであるねずみ男が脈絡なく描かれているコマがあり、作品における自然物描写などに水木の影響を認める隠喩といわれることもある[19]。1984年のインタビューで手塚は、「(ヒューマニズムという表面上のオブラートを剥がすことができない商売人気質を自己卑下し、それと比べ)つげ(義春)君とか、それから水木(しげる)氏、滝田ゆう、このへんなんか、ほんとに本音だけで描いてるんで、羨ましくてしょうがない。まったく歯にものを着せないでしょ?まだ白土(三平)氏のほうが商売人ですよ」と、言っている[20]。水木の著述にも、水木は手塚を勝手にライバルだと思ってやってきたとか、2003年に受賞した手塚治虫文化特別賞は感激したと書かれているものがある[21]

藤子不二雄

藤子不二雄Ⓐ(安孫子素雄)によると、手塚はトキワ荘時代に赤塚不二夫や石森章太郎らを食事に招待したが、藤子両人は声を掛けられなかったという。また、両人が コンビ解消した際に手塚は「これで同等に勝負出来る」とコメントしていた。

藤子・F・不二雄(藤本弘)も安孫子同様、生涯に渡って手塚を「最大の漫画の神様」と尊敬し続け、自伝や漫画の書き方の本で手塚を絶賛していた。手塚も「ドラえもんの人気にはかなわない」とコメントしたことがある。

藤子不二雄Ⓐによる自伝マンガまんが道では手塚は最大の師として登場しており黒澤明、ウォルト・ディズニーと並ぶ創作の神として扱われ、満賀(我孫子)が手塚の生原稿をプレゼントされると宇宙が見え、アシスタントをすることになったら緊張のあまりペン入れができず、手塚が言葉を発すると時折メガネが光り、背景には稲妻が走るなど、(まんが道という作品全体に言える事だが)過剰ともとれる表現がなされており、いかに藤子不二雄という作家に対して手塚という人間が大きかったかということが読み取れる。

大友克洋

初登場時にその精緻な画力・斬新な表現方法に衝撃を受け、自分のデッサン力の無さを自覚していた手塚は、大友を特集していた1988年の『ユリイカ』臨時増刊号誌上で、大友を絶賛して降参を宣言。しかし、大友克洋本人に会ったときには「自分でも描ける」と発言し、目の 前で同じタッチの繊細な絵を描き上げた[22]。『陽だまりの樹』では大友克洋に 影響を与えたフランスの漫画家メビウスのタッチを取り入れている[23]

以後、手塚はストーリー重視の、より重厚な作品の創作に意欲的に取り組むようになる。この時期、本人も自分の漫画は記号的であると宣言したという。幼い頃から手塚作品を読んで育った大友は手塚に高い敬意をはらっており、自身の著作『AKIRA』を手塚に捧げるとし、手塚の死後『メトロポリス』が映画化されたときには脚本で参加した。

宮崎駿

1988年手塚治虫が亡くなった時、漫画では自分も影響を受けた、と全面的に肯定した上で、アニメーションに携わる人間の立場から、アニメーション作家としての手塚が日本のアニメーション史に果たした役割に批判を加えた。

「ストーリー漫画をはじめて、今日自分達が仕事をやる上での流れを作った人」とし、「アトムやロックの漫画が好きで影響を受けていた一人だったが、漫画家を目指していた頃はどうしても影響が抜けなかったことが悔しかった」「訃報を聞いて、天皇崩御の時より昭和の時代の終わりを感じた」「猛烈に活動力を持っている人だったから、人の3倍ぐらいやってきたと思う。六十歳で死んでも百八十歳分生きたんですよ。天寿をまっとうされたと思います」「手塚さんはどこかで僕にバトンを渡してくれた人だと思います。彼からしかもらえなかったバトンがいっぱいあったと思います」と賞賛した。一方で、日本のテレビアニメの始祖が手塚であったことの問題点(異常に低い予算で『鉄腕アトム』を制作したことなど)を「プロではなかった。金持ちのボンボンの道楽だった」。また東映動画(現、東映アニメーション)のアニメーション映画『西遊記』(手塚が制作に参加)での一エピソード[24]を例に挙げ「ドラマ展開に強引と言ってもよいほど悲劇を持ち込む傾向がある」と必然性が無いところにまで強引に悲劇を持ち込む一種の手練手管に堕した手法として否定した[25]

手塚のアシスタントだった漫画家の石坂啓は、生前の手塚が宮崎に対して正式にコメントしなかったことについて「先生、悔しくて仕方な かったんでしょうね」とコメントしている[26]。但し、手塚本人は漫画情報誌ぱふ』のインタビュー記事において、宮崎による『ルパン三世 カリオストロの城』(東京ムービー新社(現、トムス・エンタテインメント)、1979年)に関し、「僕は面白いと思った。うちのスタッフも皆、面白がって観ていた」と語ってい る。その後の宮崎作品、例えば『風の谷のナウシカ』(徳間書店博報堂1984年)に関してのコメントは僅かしかなく、先の石坂のコメントに繋がるものと考えられる。(詳細については、元アシスタント吉住純氏のブログを参照の事。―手塚治虫は「風の谷のナウシカ」を観たのか??/続・手塚治虫は「風の谷のナウシカ」を観たのか??

その他の漫画家

梶原一騎
手塚は「あんな漫画(『巨人の星』)のどこが面白いんだ」とはっきりと嫌悪を示してスタッフに訴えたという[27]。なお、手塚のアシスタントだった石坂啓によれば、『巨人の星』掲載時の『少年マガジン』全般について批判的であったとされている(W3事件参照)ので、特に梶原一騎作品というわけではなく、劇画スポ根ものといった、自身の作風と距離のある漫画全般に対する批判であったとも考えられる。
石ノ森章太郎
石ノ森(当時、石森)の『ジュン』(一切台詞の無い実験的な漫画)に対し、嫉妬心から「あれは漫画ではない」と批判した。石ノ森はショックで連載(虫プロ商事 発行『COM(コム)』)を止めるまでに至ったが、後に手塚が失言を認め謝罪した[28]。石ノ森の漫画には絵や演出方法に手塚の影響が随所に見られる。
さいとう・たかを
さいとうの『ゴルゴ13』にも石ノ森へと似たような批判をしていた。さいとうは「漫画の神様は漫画より絵図面が上手い」と反発。また、さいとうは手塚の批判について「(自分と)全く作風が違っていたから意に介さなかった」とも語っている。
荒木飛呂彦
少年ジャンプの新人賞受賞パーティの場にて(NHK特集『わが青春のトキワ荘』(1981年5月25日放送NHK)のカメラの前で)手塚賞を受賞した荒木飛呂彦握手をし「(漫画界では)東北の人から出る人は少ない」と発言した手塚に、「石森章太郎先生」と荒木は即座に答えた。手塚は小さく唸ると「まぁ、ああいう程度のもんでね。だから、ちょっとその後を継ぐ人としてさ…」と荒木を激励した。上述の石森との関係などから、この「ああいう程度」と言う言葉に対して「石ノ森しかいない」「石ノ森程度しかいない」「石ノ森を超えろ」など深読みがされることもあるが、手塚の人柄から深い意味はないものと考えられている。のちに荒木はこの握手に「漫画家の『手』ってすごい柔らかくてフワフワだぁ」という感想を持ったことを語り「達人は手がふわふわしている」とまとめている[29]
いしかわじゅん吾妻ひでお
イベントで同席し、「この二人は若手の間では神様みたいな人」と紹介され恐縮したといしかわの著作にある[30]。また、この二人を『七色いんこ』に登場させたいとのことでいしかわが本人から電話をもらったとある。

競争心と向上心

生前の手塚には「常にマンガのムーブメントの中心にいたい」という強い意志が指摘される。風貌や実績から温厚な人格者というイメージがあるが、石森章太郎(石ノ森章太郎)や大友克洋ら若い才能に対し、敵愾心を燃やす人間くさい一面があるということは余り知られていない。その他、いかにも漫画的・人間的なエピソードが紹介されることもある。

  • 劇画が巷に出始めた頃は、手塚はみずからの図柄や構図に劇画の手法を取り入れ、作品に厚みやリアリティーを増した。[31]
  • ベテラン漫画家となると通常はしなくなる出版社への原稿の持ち込みを晩年まで行なっていた。[32]
  • 原稿料が高くなると執筆の場がなくなることを恐れ、あえて原稿料を据え置いていた[33]
  • 注目すべき新人漫画家へのチェックを欠かさなかった[34]
  • 若手漫画家らと同席した際には、自ら出向き「君の絵のタッチは再現できるよ……」などと陽気に話しかけ、悪意のないライバル心や、流行への探究心(curiosity)を晩年に至っても持ち続けていた。
  • 松本零士など後進の漫画家などの客人に、いたずらでチョコレートうどんを食べさせたことがある。
  • 締切前に担当編集者の目を盗み、映画鑑賞のためなどと称して度々逃亡している。阿蘇山まで逃げたこともある。
  • 深夜、「メロンを買ってこなければ続きを描かない」などと担当編集者に無理難題を言い出した(当時はコンビニエンスストアなど無い時代である)。
  • 寝ているところを編集者に叱責されると、「寝ていたのではない。横になって疲れをとっていただけだ。」と言い張った。

上記のように、担当の編集者からすれば目に余る行動もあったらしく、当時の担当編集者の中には手塚の人間性を厳しく糾弾する例も見られたようだ。しかし手塚は依頼された仕事をほぼ断らずに受けていた。また編集者たちも、新雑誌の創刊毎に「彼(手塚)が誌面にいないと売れない」という理由でいくつも連載を掛け持ちさせていたのである。

評価

全体

日本の現代漫画の基礎の確立に大きく貢献したと言える。また、作品自体が幅広いジャンルにわたり、一個人の人間から出現した芸術作品の量としては極めて大量かつ良質で、大衆的な人気も得ている。手塚は現在の日本社会における漫画産業やアニメーション産業の確立に深く関わっており、単なる作家ではなく戦後大衆文化の産業としての確立をも担った創作者として評価される。アニメーションは漫画に比べると創業者としての評価が主体で作品自体が完成の極みに至ったとは言い難い。

日本の現代漫画の創業者として

開高健は、1964年に『マンガの神様手塚治虫』という文を発表しているが、開高健の時にはその呼称はあまり普及しなかった。手塚をマンガの神様と呼ぶのは、手塚の作品『がちゃぼい一代記』(1970年)の登場人物、マンガの神様にちなむ。この作品は雑誌掲載後しばらく日の目をみなかったが、1977年に単行本『紙の砦』に収録された。同年12月、久里洋二犬塚進らが相次いで手塚を神様扱いする言及を行い、その後、手塚を指す呼称として普及した。この作品中で、手塚は、「マンガの神様が自身に乗り移った」という表現をしている。密度の濃い作品を40年以上の期間に渡って大量に残している点で余人の追随を許さず、これが「神様」と呼ばれる所以と見る向きもある。

手塚はこの呼称を好まなかったが、自作中の登場人物の名でもあるため、マンガの神様だと呼ばれても積極的に否定はしなかった(代わりに、自分がマンガの神様なのではなく、マンガの神様が自分に乗り移ったのだ、という意味の弁解を何度もしている)。

初期の少年漫画『来るべき世界』『ジャングル大帝』から、後期の青年漫画『アドルフに告ぐ』や『陽だまりの樹』までの作品を見てみれば、出現する人間たちは思想や心情に非常に富んだ多数の人間が出現している。例えば『アドルフに告ぐ』では大日本帝国ナチスドイツ、在日外国人、特高警察などの人間がそれぞれの社会背景を持ちつつ、個人としての感情や思想をもち、それらのキャラクターが自然な形で言葉を語り、激情し、ぶつかり合う姿が描かれている。現在でも大作と言われている漫画やアニメの大半は背景設定のみ複雑であり、登場する人間は実に単純でステレオタイプである。人間の思想や価値観や心情の種類は無限にあり、運命に翻弄されながらそれらが複雑に絡み合って生きていくことが描かれている。

ヒューマニズム作家として

没後、「マンガの神様」という呼称が一人歩きし、神格化されるようになった。作品もヒューマニズムの側面ばかり強調されるようになり、手塚に対する一面的な美化が行われた。実際には作品の中では非常に多くの思想や信条、感覚、心情を持つ人間が登場し、人間群像の繰り広げる悲劇を好んで描いた。確かに、『ブラック・ジャック』をはじめとして、ヒューマニズム的な要素が伺える作品も多いが、残酷で救いのない悲劇作品も多く描いている。一貫して伺えるのは人間や社会への絶望感や、厭世的な意識であり、その世界観には虚無的な要素(ニヒリズム)が強く伺える。手塚自身、自らがヒューマニストと呼ばれることを極端に嫌っていた。インタビューでは「自分は、そのへんのニヒリスト以上の絶望を持って仕事をしている……はっきりいえばヒューマニストの振りをしていれば儲かるからそうしているだけで、経済的な要請がなければやめる」と強い皮肉を込めて断言している[35]

多作であったことへ

多作のため作品の出来ばえに少々ムラがあるが、密度の濃い作品を40年以上の期間に渡って大量に残している点で余人の追随を許さない。現代の漫画家の多くは、原案、ストーリー展開、作画作業など、多くの部分を自己が抱えるスタッフや雑誌編集者と共同で行っている。手塚の場合、作画などはプロダクション形式で行っていたが、アイデアやストーリーは殆ど自分一人で練り上げていたらしい。手塚の作品ほどのストーリー性の濃い漫画を、月産100ページ超も生み出す漫画家は現在殆どいないと言われる。実際に多くの漫画家はアイデアを出すことに多くの時間を費やし、ネームを作るのに精神的な重圧を感じるほど苦しむ。しかし、手塚はある中堅漫画家との会話で「ネームを描くのに苦労して…」と言われると「え? なんで?」と返したというエピソードがあるほど発想に満ち溢れた人間だった。しかし、手塚治虫といえども編集者から度々ネームの修正依頼が掛かり、苦心もしていたようだ。

国家から

現時点では勲三等瑞宝章叙勲に留まっている。亡くなった後に、麻生太郎から国民栄誉賞の推薦があったが、「漫画家授与の前例がない」などの理由で授与は見送られてしまった(冨樫義博も『幽☆遊☆白書』単行本の袖で「そんな事をしたら“辞退させてくれ”と彼が化けて出るだろう」と述べている)。後に漫画家としての国民栄誉賞受賞は1992年に「サザエさん」で知られる長谷川町子への授与によって前例ができることとなる。

政治的立場からの自由

政党との関係

  • 日本共産党松本善明いわさきちひろ夫婦と親交があった。
  • 美濃部亮吉東京都知事蜷川虎三京都府知事の選挙応援をした。
  • 共産党機関紙『赤旗』の「日本共産党の躍進に期待します」にしばしばコメントを寄せた。
  • 共産党イベント「赤旗まつり」でサイン会や講演をした。
  • 『赤旗日曜版』で連載を持っていた(『羽と星くず』『八丁池のゴロ』『タイガーランド』など)。
  • どんなに他社の仕事を抱えている時でも赤旗の連載を優先し、赤旗からは原稿料すら受け取らず、「『赤旗』のようなまじめな新聞にかかせてもらえるだけでうれしい。他社のは仕事、『赤旗』のは僕の気持ち」と発言(元赤旗記者の佐藤まさゆき談)。

上記事項により、日本共産党シンパだったと言われることもある。

手塚の政治的思想

反権力的色彩や平和主義が濃厚ではあるものの、首尾一貫した政治的信条は持っていなかったと考えてよい。赤旗の連載と同時に、保守の『サンケイ新聞』(現在の産経新聞)でも連載を持っていた(『青いトリトン』、ほかに『オズマ隊長』『ハトよ天まで』『鉄腕アトムアトム今昔物語)』など)ことや、創価学会系の潮出版社とも関係が深かった(『ブッダ』『月世界の人間』『ハヌマン の冒険』『ルードウィヒ・B』など)ことから、「一億人の手塚治虫」を手がけた編集者の竹熊健太郎は自身のブログで、「ある意味、何でもあり」「(その程度の)政治意識だったということだと思います」と語っている。竹熊はまた、手塚には「体制」の側ではない「ノンポリ」的意識が強かったのではないかとも指摘している。同日に行われた異なる大会の発言からもその事が読み取れる。

  • 日本共産党の党大会「これからは人間みんな平等な環境にならなければダメだと思います。今本当に人権というものがないがしろにされている。20世紀を迎えて博愛主義を叫んでるのにこれでは本当に恥ずかしくなりますよ」
  • 自由民主党の党大会「今の世界自由競争が第一になくてはならないと思います。(略)私は日本もさらに競争力をつけるべきだといいたいのです。こんなことを言うと落伍者が出るダメだと言い張る人がいます。でもそんなの競争を行ってるから当然出てくるんですよ。人権、人権言ってるのは甘えでしかないんです」

上記のように矛盾した発言をしていたことも知られている。

医学者・手塚治

手塚自身は「医業が本業でマンガは副業」と述べているが、これは手塚特有の冗談で、通常は漫画が本業と考えられている(この文章が、『ぼくはマンガ家』という文の中で発表されたという事実そのものが、その内容が冗談であることを示している)。ただし、知人の漫画家やアシスタント、手塚番記者らが手塚の診断を受けたことがあるという言及は幾つか残っている。

太平洋戦争末期、海軍飛行予科練習生に志願するが、身体検査視力)で不合格になった。この試験に不合格になった者は、健民修練所という全寮制の訓練所に入所し軍事教練を受けることになっていた。手塚も入所したが、栄養失調のまましごきに近い教練を受けたため水虫が悪化し、もう数日で両腕切断というところまで悪化した。建前としては、このとき診察した大阪帝国大学付属病院の医者に感動し医師を目指した、ということになっている。ただし本人は、医学校に行けば卒業までは徴兵される心配がなく、卒業後も軍医ならば最前線に配置される可能性が低いことが医学校に進んだ理由であることを認めている。

戦後に設立された奈良県立医科大学電子顕微鏡が導入されたが、当時の日本には顕微鏡写真を撮影できる装置も技術も無かった。そこで、手描きでスケッチをしなければならなくなったが、医学論文に添付するようなスケッチは単に絵が上手いだけでは不適で、医学的な知識を持った者が描かなければ役に立たなかった。困った奈良県立医科大学の研究者は、医学校時代の同窓生である手塚にスケッチを頼んだ。このため、手塚は電子顕微鏡を自由に使え、なおかつスケッチもできる日本で唯一の研究者となった。

頼まれたスケッチ以外にも電子顕微鏡で多くのスケッチを行い、これを論文に纏め、同大学はお礼の意味を込めて医学博士号を贈った。学位取得論文名は、「異形精子細胞における膜構造の電子顕微鏡的研究」(タニシ異形精子細胞の研究)。『奈良医学雑誌』第11巻第5号、1960年10月1日、pp.719-735.に所収。これらのスケッチは現在も奈良県立医科大学解剖学教室に保管されている。なお、同大学の図書館には、手塚が後に贈ったブラック・ジャックの絵が展示されている。

テレビなどで漫画の害悪を糾弾(いわゆる悪書追放運動)するような教育番組が多く放映されていた当時、出たがりの手塚は、糾弾の矛先となるのを承知の上で漫画擁護のため、そのような番組に率先して出演し教育学者やPTAなどから直接批判を浴びていた。しかし、手塚の博士号取得後、司会アナウンサーが「医学博士の手塚さん」と紹介するようになると、「漫画を読むと頭が悪くなる」と主張していた保護者代表らはその持論が破綻することとなり、その後そのような主張を展開する者は徐々に減ることとなった。ただし手塚は、批判をかわすために博士号を取得したのではないとしている。

手塚が実際に患者を診たことはほとんど無い。医師としての専門は外科であり、その当該分野の専門知識が『ブラック・ジャック』等の自身の作品にも活かされている。しかし後に医学博士を取得した際の研究テーマは前述の通り外科分野ではなく基礎生物学領域のものであった(一般に、よく混同されがちなことであるが、医学博士号は医師でなくとも取得可能であるため、医師としての専門分野が医学博士としての学位取得研究分野と重なるとは限らない)。このことは幼少時からの昆虫少年であった履歴をしのばせる。手塚のの漫画家としてのキャリア自体、少年時代に同じ昆虫少年たちを集めて創立した昆虫同好誌への漫画作品の連載から始まっており、精巧な昆虫細密画集とも言える手書きの私的な昆虫図鑑を描いたりもしている。こうした生命を愛す長いキャリアを背景にした豊かな動植物に対する知識も作品に活かされている。

手塚治虫の漫画キャラクター

手塚漫画のキャラクター一覧を参照

作品

手塚治虫の作品一覧を参照

実験アニメーション

監督

  • リボンの騎士 (TVアニメ、虫プロ)(全エピソードを通しての完全な関与ではない)
  • クレオパトラ(手塚治虫、山本暎一)
  • 火の鳥2772 愛のコスモゾーン

原案

原作

その他

漫画以外の著書

アシスタント

トキワ荘・初台時代

アニメーションスタッフ

  • 北野英明
  • 小林準治 - 後期の実験アニメの作画を担当
  • 坂口尚 - アニメ関係で手塚治虫の片腕として活躍
  • 豊田有恒(虫プロ文芸部)
  • 石津嵐(虫プロ文芸部)
  • 辻真先(桂真佐喜名義で多くのアニメ作品に脚本家として参加)
  • 富野由悠季
  • 中村和子 - 虫プロ立ち上げ時から多くの商業・実験作品にアニメータとして

メディア出演

テレビ

映画

ラジオ

CM

  • 日本デジタル研究所 文作くん(ワープロ専用機)(1983年)
  • 森永クリープ 登場し台詞「クリープを入れないコーヒーなんて、台詞の無い漫画みたいなものです(うろ覚え)」(年?)

CD

  • 立川談志ひとり会」特典CD「とっておきの二大対談」
    •  1985年国立劇場における、談志との対談が収録されている。

演じた俳優

出典・脚注

  1. ^ 霜月たかなか編『誕生!「手塚治虫」マンガの神様を育てたバックグラウンド』(1998年朝日ソノラマ
  2. ^ 夏目房之介『マンガは なぜ面白いのか その表現と文法』日本放送出版教会、1997年
  3. ^ 手塚悦子『夫・手塚治虫とともに 木漏れ日に生きる』 (1995年、講談社)
  4. ^ 夏目房之介『手塚治虫はどこにいる』(1992年筑摩書房)。
  5. ^ 『アニメ大国の肖像』(中日新聞連載、2006年)
  6. ^ 津堅信之『アニメ作家としての手塚治虫―その軌跡と本質』NTT出版、2007年
  7. ^ 『作画汗まみれ 増補改訂版』P95「4章 テレビアニメーション時代の幕開け」
  8. ^ 2000年2月27日、滋賀県立近代美術館での講演
  9. ^ 「『ブラック・ジャック』は手塚漫画の終わりを飾る作品として企画された」『RackAce』(1994年10月号、トーハン)および、安藤健二『封印作品の謎』(太田出版2004年)での「少年チャンピオン」の手塚治虫担当編集者岡本三司の証言による。しかし、『別冊宝島・70年代マンガ大百科』(1996年宝島社)の当時の「週刊少年チャンピオン」壁村耐三編集長はこの点について尋ねられて、「それは大げさ」として手塚の側が「もう最後だから」というニュアンスだったという。
  10. ^ 『球漫』での伊集院光との対談など
  11. ^ てんとう虫コミックス17巻収録「週刊のび太」
  12. ^ 「COMIC BOX」1988年8月号。
  13. ^ 竹内オサム『戦後マンガ50年史』(1995年、筑摩書房
  14. ^ 上記はアニメ監督の笹川ひろし(手塚の専属アシスタント第一号)が著書『ぶたもおだてりゃ木にのぼる』の中で披露したエピソード。笹川は手塚の超人的な能力に驚嘆した。
  15. ^ 手塚治虫『ぼくはマンガ家』(1969年、毎日新聞社
  16. ^ 夏目房之介『手塚治虫の冒険 戦後マンガの神々』(筑摩書房1995年
  17. ^ 初出は小学館の「ビッグコミック1969年10月25日号、角川文庫『畏悦録』収録
  18. ^ 足立倫行『妖怪と歩く 評伝・水木しげる』(1994年、文藝春秋社
  19. ^火の鳥 鳳凰編』(角川書店、ハードカバー版、p194、1986年)
  20. ^ 「SIGHT」(vol.15、pring、2003年、p22(インタビューと撮影は渋谷陽一による)、(株)ロッキング・オン)
  21. ^ 『水木サンの幸福論 ―妖怪漫画家の回想 ―』(2004年) 
  22. ^ 『1億人の手塚治虫』(1989年、JICC出版局)
  23. ^ 『手塚治虫の冒険』(1995年、筑摩書房)
  24. ^ 「西遊記」の製作に手塚が参加していた時に、挿入するエピソードとして、孫悟空の恋人 の猿が帰ってみると死んでいた、という話を主張したという。「けれどなぜその猿が死ななくてはならないかという理由は、ないんです」、ひと言「そのほうが感動するからだ」。このエピソードに関しては、ウェブサイト「WEBアニメスタイル」の白川大作氏のインタビュー[1]も参照されたい。
  25. ^コミックボックス』1989年5月号、ふゅーじょんぷろだくと
  26. ^ 『1億人の手塚治虫』(1989年、JICC出版局)
  27. ^ 『1億人の手塚治虫』(1989年、JICC出版局)
  28. ^ 石ノ森章太郎『絆 不肖の息子から不肖の息子たちへ』(2003年、鳥影社)
  29. ^ スティール・ボール・ラン単行本第五巻刊頭コメントより
  30. ^ いしかわじゅん『フロムK』(双葉社週刊漫画アクション1989年3月7日号掲載分)。
  31. ^ 夏目房之介『手塚治虫はどこにいる』(1992年、筑摩書房
  32. ^ 呉智英、藤田尚、米澤嘉博、村上知彦、喰始「座談会「手塚治虫」検証 民主主義とヒューマニズムの人だったのか」『COMIC BOX』(ふゅーじょんぷろだくと、1989年5月号)
  33. ^ 西村繁男『まんが編集術』(白夜書房1999年
  34. ^ 宮原照夫『実録!少年マガジン名作漫画編集奮闘記』講談社、2005年
  35. ^渋谷陽一のインタビューでの発言、『風の帰る場所』P73)
  36. ^ 榊原郁恵大場久美子主演のコメディードラマに本人役でゲスト出演。「トレードマークのベレー帽を盗まれた」と言う設定で、帽子が犯人(演:江藤博利)の住むアパートの押入れから見つかるまで手拭で頭を覆っていた。

関連項目

外部リンク


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2008年4月8日 02:04 版 改訂履歴
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