広瀬淡窓
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広瀬淡窓(ひろせたんそう、天明2年4月11日(1782年5月22日) - 安政3年11月1日(1856年11月28日))は、江戸時代の儒学者で、漢詩人、教育者。豊後国日田の人。淡窓は号。通称は寅之助のちに求馬(よみはモトメ)。諱は建。字は廉卿あるいは子基。別号に青渓など。現在の大分県知事広瀬勝貞は弟広瀬久兵衛の子孫にあたる。
経歴
豊後国日田郡豆田町魚町の博多屋三郎右衛門の長男として生まれる。少年の頃より聡明で、青年にいたり筑前国に遊学し亀井南冥・昭陽父子に師事したが、大病を患い帰郷。病は長引き一時は命も危ぶまれたが肥後国の医師倉重湊によって命を救われる。その後、病気がちであることを理由に家業を継ぐのを諦めて弟の久兵衛に商売を任せ、一度は医師になることを志すが、倉重湊の言葉によって学者・教育者の道を選ぶ。
1805年、豊後国日田に私塾を開き、桂林荘とする。1817年、塾を堀田村(現大分県日田市)に移し、咸宜園とする。咸宜園は入学金を納入し名簿に必要事項を記入すれば、身分を問わず誰でもいつでも入塾できた。また、「三奪の法」によって入門者は全て公平に扱われた。すなわち、学歴・出身身分・年齢の有無高低を一切認めず、入門者は次の試験を経て能力に応じた級に所属する決まりとなっていた。進級も全て塾内の試験により、咸宜園は当時としては珍しい身分に一切とらわれない能力主義の教育機関となっていた。なお、この咸宜園は淡窓の死後も1897年まで存続し、弟の広瀬旭荘や林外、青邨等によって運営された。塾生は全国各地から集まり、入門者は4000人を超える日本最大級の私塾となった。 淡窓は晩年まで万善簿(まんぜんぼ)という記録をつけ続けた。これは、良いことをしたら白丸を1つつけ、食べすぎなどの悪いことをしたら1つ黒丸をつけていき、白丸から黒丸の数を引いたものが1万になるようにするものだった。淡窓は1856年に75歳で死去した。
墓所は日田市中城町の長生園で、国の史跡に指定されている。
主な著書には、「淡窓詩話」や「遠思楼詩鈔」などがある。
咸宜園の主な門下生としては、以下のような人物がいる。
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- 高野長英 蘭学者・蘭医。『戊戌夢物語』で幕政を批判した
- 岡研介 蘭医。シーボルトにも師事
- 大村益次郎 四境戦争で活躍後、戊辰戦争で参謀。戦後、兵部大輔となり日本陸軍の基礎を築く
- 上野彦馬 日本最初期の写真家
- 中島子玉 儒学者。淡窓に「人才此人ヲ以テ第一」と賞賛され、咸宜園の都講(塾頭)となるが師に先立ち早世。墓碑銘は淡窓が書いている。
- 松田道之 滋賀県令・東京府知事を歴任、琉球処分で活躍
- 長三州 戊辰戦争に参謀として参加後、文部大丞などを歴任
- 島惟精 岩手・茨城県令などを歴任
- 中村元雄 県令などを歴任後、貴族院議員
- 大隈言遺 国学者・歌人
- 帆走杏雨 画家。田能村竹田に師事した豊後南画の作家
- 平野五岳 詩・書・画に優れ「鎮西の三絶僧」と呼ばれる。詩を淡窓に、画を田能村竹田に学ぶ
- (淡窓没後)
研究
淡窓の思想として有名なのは「敬天」である。人間は正しいこと・善いことをすれば天(朱子学においては「天」と「理」は同じものであるが、淡窓の考える「天」は「理」とは別の存在であり、「理」を理解すれば人間は正しい行いをして暮らすことができる、しかしその「理」を生む「天」は理解することができない、とする)から報われる、とする。淡窓の説くこの応報論は「敬天思想」といわれ、戦後から80年代まで主に研究されていた。最近では、淡窓の私塾である咸宜園を実力主義の教育システムとしての研究や、淡窓の漢詩に対しての研究が主になっている。
大分県日田市には淡窓の名を冠した「淡窓1丁目」や「淡窓図書館」がある。淡窓図書館は、以前は咸宜園跡の北隣に位置していたが、現在は700mほど東の上城内町にある。
参考文献
- 田中加代『広瀬淡窓の研究』ぺりかん社、1993年。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2008年4月8日 02:04 版 改訂履歴 Text is available under GNU Free Documentation License. |