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平成

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

日本の歴史

image:Image:Jomon vessel 3000-2000BC.jpg

平成(へいせい)は、日本の元号の一つ。昭和の後。1989年1月8日から2010年現在に至るまでの期間を指す。今年(2008年)は平成22年である。

目次

改元

今上天皇明仁)の即位の為、元号法に基づき1989年1月8日に改元。

「平成」は、元号法が制定された際に陽明学者・安岡正篤が考案したと言われ、改元時の内閣総理大臣竹下登ら政府首脳も決定前から執心していた。また、閣僚などを通じ、「平成」や「修文」などの候補が外部に漏れ、幾ばくかの国民の間では予想する事も可能であった。

政府は、昭和天皇崩御(死去)を受け、その当日(1989年昭和64年)1月7日)の午後、「元号に関する懇談会」(8人の有識者で構成)と両院正副議長に3つの候補を示し、意見を聴いた。その際、「平成」は最初に書かれており、また、他の「修文(しゅうぶん)」、「正化(せいか)」の2候補はローマ字表記の頭文字が「昭和」と同じ「S」になり初めから選び得ないものだった。

同日14時10分から開かれた臨時閣議に於いて新元号を正式に決定し、14時36分、内閣官房長官小渕恵三が記者会見で発表。

「只今終了致しました閣議で元号を改める政令が決定され、第1回臨時閣議後に申しました通り、本日中に公布される予定であります。
 新しい元号は、平成であります

と言いながら新年号を墨書した台紙を示す姿は、新時代の象徴とされた。
その台紙は竹下登元首相の孫であるミュージシャン、DAIGO☆STARDUSTの実家(元竹下登私邸)に現存している。

同日、「元号を改める政令」(昭和64年政令第1号)は新天皇の允裁を受けた後、官報号外によって公布され、翌1月8日から施行された。また、「元号の読み方に関する件」(昭和64年内閣告示第6号)が告示され、新元号の読み方が「へいせい」であることが明示された。

尚、大正昭和の際と異なり、平成改元の際に翌日から施行された背景として、当時は文書事務の煩雑化・ワードプロセッサをはじめとするOA化に伴うプログラム等の変更を行うためと報道された。

「平成」の出典

安岡正篤が考案した元号であるが、「平成」の名前の由来は、『史記』五帝本紀の「内(内平かに外成る)」、『書経』大禹謨(偽書)の「地(地平かに天成る)」からで「内外、天地とも平和が達成される」という意味。なお、平成は慶応改元の際にも候補に上がったが、2回目で採用された。

典拠・故実に由来する反対意見に以下のようなものがある。

  • 典拠として史記書経よりも重視するのはおかしい。書経のみを以て典拠とするべきである。
  • 書経の当該部分は、清代中国における研究によって偽書(偽古文尚書)である事が確定したものであり、典拠として書経をあげるべきではない。
  • 「平」「成」の文字の中に「干(=楯)」「戈(=鉾)」があり「干戈(戦争を意味する)」に通じる。
  • 平治以来「平」ではじまる元号がないのは、平治が戦役によって混乱した時代であったためであり、「平」ではじまる元号はこれを避けるのが故実である。

時代の流れ

政治・経済

1982年1987年中曾根康弘内閣を最後に、平成に改元された当時の竹下登内閣以降、短命な内閣が続き、2001年までの12年間に首相が10人、平均の在任期間が1年強という混迷の時代が続いた。この中には日本政治史上記録的な2つの短命内閣も含まれている(宇野宗佑内閣(69日)、羽田孜内閣(64日))。小泉純一郎内閣(2001年4月~2006年9月)が平成初の長期政権である。小泉の首相在任期間は戦後3位(1980日)であり、私学出身者・党人派による政権としては共に戦後最長である。

派閥領袖ではない人物が多く首相に就任している。2008年現在、12人の首相のうち、派閥領袖として首相に就任した人物は竹下、宮沢喜一小渕恵三森喜朗の4人のみである。首相就任時の年齢が低下傾向にある。昭和期には60歳代後半・70歳代の首相は珍しくなかったが、平成期では多くが50歳代後半から60歳代前半で首相に就任している。70歳代での首相就任は宮澤喜一村山富市福田康夫の3人のみである。海部俊樹細川護熙羽田孜橋本龍太郎、小泉純一郎、安倍晋三は、50歳代で首相に就任している。橋本龍太郎、小沢一郎、小泉純一郎、福田康夫といった世襲政治家が多く活躍した。1994年の村山政権以来の首相は全員、世襲政治家が占めている。

平成期は、戦後体制を見直し、バブル崩壊以降の閉塞状態を脱却しようとする機運が生まれ、選挙制度改革(小選挙区比例代表並立制の導入)、政治改革(政治資金規正法政党助成金制度)、行政改革(省庁再編公務員改革)など、総じて「改革」が望まれ、実現されてきた時代であると言える。また、有事法制の整備や自衛隊の海外派遣、教育基本法の改正など、保守色の強い政策への抵抗感が弱まり、自由民主党民主党の二大政党の政策は右傾化している。革新勢力は力を失い、中国脅威論や対北朝鮮制裁に国民世論が同調している。政界再編が頻発し、政権の枠組みが頻繁に変化した。この事は、政治家のスキャンダルが多く発覚したこととあわせ、国民の政治不信を呼んだ。特定の支持政党を持たない「無党派層」が既存政党への支持者を大きく上回っている。

2000年中央省庁再編により、官邸主導が強まった。「竹下派七奉行」「清和会四天王」と呼ばれた大物政治家らが1990年代の政界を主導したが、過半が死去・引退した。2000年代に入り、戦後生まれの世代(概ね1946年以降に生まれた)が主導権を握りつつある。与野党で戦後世代の党首が誕生している。地方政治では、ユニークな「改革派首長」が登場し、財政再建や過疎対策などに辣腕を振るうようになった。

2001年に首相に就任した小泉純一郎によって推し進められた「聖域なき構造改革」以降、平成不況からは脱したものの、非正規雇用および所得格差の増大が表面化し、「格差社会」の到来が叫ばれるようになった(新自由主義政策)。

教育

偏差値重視の現行教育制度の改革が進められており、文部科学省はゆとり教育を掲げ授業時間数の削減、教育内容の減少を推進した。さらに愛国心情操教育を盛り込んだ教育基本法の改正も行われた。

これに伴って、経済格差地域格差を背景とした能力格差が表面化している。この原因は公教育機能が低下しているためといわれ、公教育への不信感が増大している。それを補うための学習塾私立学校へ進学希望者が増加している。しかし、学習塾や私立学校のない地域はどうやって勉強すればいいのか、不景気の中で教育産業だけが儲かる状況は異常ではないのか、低所得者の学習意欲をどう保証するのかなど、日本国憲法が定めた教育権(能力に応じて教育を受ける権利を持つ)の問題を含めて深刻な状況にある。

そのためゆとり教育の見直し、幼稚園保育園高等学校義務教育化に代表される公教育の機能強化が唱えられているが、教育観や費用の問題もあって見通しは不透明である。

少子化の進展で2005年には『大学全入時代』を迎えたが、学校を卒業しても親に生活を依存するニート引きこもりパラサイトといった学生や社会人が増加し、問題視されている。これは経済的には1990年代以来の不景気を背景にしているが、学校と実社会の間にギャップがあるという日本独特の問題が潜んでいるとされる。余りに学校社会になれた子供は、卒業しても社会に適応することが困難になるといわれる。と同時に、教育は学校に行くことだけがすべてではないという見方から、公教育以外の多様な施設が考案、実践されている。さらにメンタル面では不登校児童虐待いじめ薬物乱用、性モラルの低下といった問題を抱えるが、これらの問題は家庭や学校のみならず、塾にまで波及しつつある。

国際環境

昭和天皇の崩御とベルリンの壁崩壊が同じ1989年に起こったので、世界史的には、平成は「ポスト冷戦時代」とも言える。

1991年ソビエト社会主義共和国連邦は、領土を構成していた共和国のすべてが独立し、解体された。イデオロギーの退潮に伴って、各地で民族・宗教紛争が顕在化、テロリズムの脅威が叫ばれている。一方でソビエト連邦解体後は、旧東側諸国が西側経済に統合され、世界経済の一体化が起こった。アメリカという超大国を軸に、欧州連合 (EU)中国ロシア、日本などの中大国がそれに協力したり、地域的な覇権を争って対立もしながらも、ゆるやかな世界統合がなされている。その中で日本は冷戦時と同様に日米関係を外交の基軸とし、湾岸戦争イラク戦争に協力するようになった。

海外ではアジア諸国、中国・インドタイマレーシアなどに急速な経済発展が見られ、それに伴って日本との経済関係も、これまで以上に緊密になった。

このうち、北京オリンピックを控え、「四つの近代化」を進めてきた中国は急速に経済的・軍事的存在感を強め、ガス田開発、領土問題などで日本との摩擦が表面化している。

通貨危機を脱した韓国は左派政権の盧武鉉政権が登場。折からの2002 FIFAワールドカップ共催、主婦層の韓流ブームと相まって、文化面では友好ムードが高まった。しかし、政治面では竹島の領有権問題の表面化、首相の靖国神社参拝で冷却化した。

また朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)との間で日本人拉致問題核開発問題が深刻化している。日本政府は拉致問題を解決するために、経済制裁を可能とする法整備を進め、ミサイル発射訓練を機に制裁を発令した。

この他の東南アジア諸国でも自国の経済発展や華僑の人口増加、中国の経済発展に伴って、日本を先頭とした雁行型経済に代表されてきた伝統的な対日依存を見直し、新たな経済大国として浮上した中国や、EUなど他地域との関係を強化する事で、経済の多極化を図る動きがある。

なお、東南アジア地域においては東南アジア諸国連合(ASEAN)が結成され、東南アジア諸国は共同体形成を模索している。

そのため、東アジア共同体 (AU) 、およびアジア共同体構想が浮上している。これはEUのアジア版であり、ASEANや日中韓などの各国が共同して立ち上げた大戦略だが、ASEANや日中韓といった地域には人種、宗教、言語、文化、経済力といった地域統合を促す要素に共通性が希薄で、また共同体の主導権をめぐって日中が激しく争う向きがあるものの、アジア諸国が日中の二者択一を望んでいないといった理由などで、構想自体が空中瓦解するだろうという見方も少なくない。

この他、国連創設60周年に当たる2005年には、敵国条項の削除と国連安全保障理事会常任理事国入りを目指し、グループ4(日本、ドイツインドブラジル)を結成したが、中国、韓国、さらにはアメリカなどの反対にあって挫折した。

文化

  • 初期 (1989年~1993年頃)

いわゆる、バブル景気の全盛期に該当する。若者の間で、真っ赤な口紅にソバージュ頭、太眉にボディコンという押しの強いファッションが流行した。また、トレンディドラマ全盛期でもあり(代表作は東京ラブストーリー101回目のプロポーズなど)、当時の人気俳優を起用したドラマは軒並み高視聴率をたたき出した。なお、経済的には1991年にバブル経済が終焉しているが、国民が景気停滞を感じ始めたのは1993年頃からだという見方が強い。

  • 中期 (1994年~2000年頃)

バブル経済が終焉し、平成不況に突入、就職氷河期が続く。1970年代ブーム。バブル期の流行から一転して細眉が流行し、茶髪が一般化した。ファッションの多様化がおこり、アムラー裏原宿系・B系などのファッションが流行。コギャルが風俗として注目された。携帯電話パソコンが一般にも普及してゆく。1995年頃漫画の売り上げがピークに達する。ビーイング系、小室系ヴィジュアル系流行の最盛期で、1998年頃CDセールスがピークとなる。小学生男子の変容も著しい。1997年頃からハーフパンツの普及が始まり、1999年には、カジュアルタイプの半ズボンの生産を中止に追いやっている。

  • 現代 (2001年頃~)

パソコン・携帯電話などは2000年代に入るとほとんどの国民に普及し、インターネットが一般化した。CDや漫画をはじめとする出版物の発行部数が減少したほか、一部ではテレビ離れも言われている。また、高度経済成長期や、その前後の時代を懐古する風潮も広がっている。若者のファッションは著しく多様化し、ある世代全体に広がるような流行はもはやみられなくなった。

年表

西暦との対照表

平成n年とグレゴリオ暦g年とは n = g - 1988 = g - 2000 + 12 の関係がある。つまり、2000年以降は西暦年の下2桁に12を加えると平成の年代になる。後者をもう少し違った観点から捉えると、西暦の最上位桁(単純に2)と下3桁を合わせ、ここに10を足すと平成の年代になる(例:西暦2,005年=>2+5+10=>平成17年)。

平成 元年 2年 3年 4年 5年 6年 7年 8年 9年 10年
西暦 1989年 1990年 1991年 1992年 1993年 1994年 1995年 1996年 1997年 1998年
干支 己巳 庚午 辛未 壬申 癸酉 甲戌 乙亥 丙子 丁丑 戊寅
平成 11年 12年 13年 14年 15年 16年 17年 18年 19年 20年
西暦 1999年 2000年 2001年 2002年 2003年 2004年 2005年 2006年 2007年 2008年
干支 己卯 庚辰 辛巳 壬午 癸未 甲申 乙酉 丙戌 丁亥 戊子
平成 21年 22年 23年 24年 25年 26年 27年 28年 29年 30年
西暦 2009年 2010年 2011年 2012年 2013年 2014年 2015年 2016年 2017年 2018年
干支 己丑 庚寅 辛卯 壬辰 癸巳 甲午 乙未 丙申 丁酉 戊戌
平成 31年 32年 33年 34年 35年
西暦 2019年 2020年 2021年 2022年 2023年
干支 己亥 庚子 辛丑 壬寅 癸卯

なお陰暦では平成は1年多くなるという説もある。つまり、陰暦の平成元年は1988年(ここでは便宜的に西暦を用いる、以下同様)であり、1989年ではないとする説である。これは昭和天皇の命日が陰暦では昭和63年(1988年)11月30日となるためであるが、現在の日本政府は「公式な陰暦の日付」を発表しておらず(国立天文台のFAQ)、陰暦年と元号との関係は明確ではないため、正しい説は1988年説と1989年説のどちらであるとも決めることはできない。ただし、市販されている陰暦が掲載された暦書などでは陰暦でも1989年を平成元年としている。

平成を冠するもの

企業・団体

文化・芸能・番組名

鉄道

地名

なお、岐阜県関市(改元当時は武儀町)の地名のみは改元以前の1988年以前も存在していた小字名である。

教育

小学校

中学校・高等学校

大学

博物館

病院

橋梁・トンネル

その他

平成に改元した直後の1989年1月には、平 成(たいら しげる)という名前の個人を見つけ出してインタビューする番組も見られた。

エピソード

  • 小渕恵三内閣官房長官(当時)が記者会見で使用した台紙に平成と文字を墨書きしたのは、内閣総理大臣官房(当時。中央省庁再編後は内閣府大臣官房)人事課辞令専門職の河東純一である。
    記者発表の20分ほど前、「平成」と鉛筆で書かれた紙片を渡され、新元号名を知る。その後、河東自らが用意した4枚の奉書紙にそれぞれに平成と書き、4枚目を額に入れ、ダンボール風呂敷で梱包したものが小渕内閣官房長官の元へと運ばれた。河東本人談として、初めて平成と知ったとき、「画数の少ない字は形が取りにくく、書きにくい」と思ったそうである。また、4枚目を選んだのはうまい下手に関係なく、はじめから4枚目を提出するつもりだったとも語っている。
    新元号を墨書する場所は、予め同官房内政審議室の会議室と決められていた。入室した際の同室では数人が別の作業を行っていたので、頼んで作業机の片隅を空けてもらい、「平成」を書き上げた。作業机は比較的高く、椅子はパイプ椅子で、周囲もやや喧騒であったため、非常に書きにくかったそうである(TBSラジオ「伊集院光日曜日の秘密基地」より)。
    河東純一は、2005年12月に職務(20万枚以上に及ぶ官記・位記・辞令及び表彰状等の作成)の功績を認められ、第18回「人事院総裁賞」個人部門を受賞した。
    • その『平成』の奉書紙は、平成改元時の内閣総理大臣であった竹下登に贈呈され、現在も竹下元首相私邸に飾られているとのことである。
  • 竹下登首相・小渕恵三官房長官の所属派閥の名前が「経世会(けいせいかい)」であり、「派閥の名前と一文字しか違わない」と陰口がささやかれた。竹下が経世会旗揚げ前に田中派内で結成した集団の名前も「創政会(そうせいかい)」であり、「○○せい」というのが竹下の好みであったのは確かなようである。

関連項目

外部リンク


日本の元号
前の元号: 次の元号:
昭和

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2008年4月8日 02:04 版 改訂履歴
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