品川湊
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品川湊(しながわみなと、品河湊とも)は、中世から明治にかけて、武蔵国荏原郡品川(現在の東京都品川区)の目黒川河口付近にあった港。現在の東京港品川埠頭から天王洲にかけての一帯がこれにあたる。
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歴史
品川湊は河口の砂洲によって流れが湾曲し緩やかとなり、砂洲を見渡すテラス状の高台があるという、古来から好まれた形状の港である。内陸部にあった武蔵国国府(現東京都府中市)の外港(国府津)という説がある[1]。品川にある荏原神社は、府中の大國魂神社との関係が深い。
鎌倉時代には、鎌倉との関係が深くなった。北条氏得宗が掌握する、武蔵国の国庫の納物を鎌倉に運ぶ港として使われた可能性も指摘されている[2]。
南北朝時代末期には、六浦に代わり、東京湾有数の湊へと成長した。補完港として神奈川湊(横浜港)も成長した。浅草や江戸湊と並ぶ、武蔵国の代表的な湊であった。
室町時代には、伊勢・熊野と結ぶ、太平洋航路で栄えた。品川湊は、中世の太平洋水運を担っていた伊勢神宮(伊勢大湊)や、熊野三山とのつながりが強い。金沢文庫の「湊船帳」によると、明徳3年(1392年)1月から9月までの間に、伊勢神宮配下の「神船」(免税船)が30隻入港したとされる。また鈴木道胤や榎本道琳などの熊野出身の商人(有徳人)が物流を担っていた[3]。品川湊では、東京湾内の小型廻船と太平洋航路の大型廻船の積み替えが行われた。
品川湊の問屋(土倉)は、鎌倉府の財政基盤の1つであった。称名寺や円覚寺の造営料も徴収された。領主であった品川氏は、鎌倉公方足利持氏に所領を没収された。1450年、足利成氏は鈴木道胤の蔵役を免除した。鎌倉府の保護の下に、港や町の運営を行っていたとされる。太田道灌が江戸城を築く直前に品川・御殿山に居館を持っていた事が知られている。
戦国時代には、支配権が太田氏から後北条氏に移り、敵対する里見義豊の攻撃を受けた。後に北条氏康から甥にあたる古河公方足利義氏の御料として献上された。
町
「千葉妙見大縁起」によると、鎌倉時代末期の1275年には、品川宿が形成されていた。室町時代には有徳人の寄進などにより、妙国寺(現天妙国寺)など多くの寺院が建てられ、都市化がすすんだ。中世の品川は、川を境として南北に分かれて町場が形成されていた。北品川には清徳寺、南品川には海晏寺があった。「都市的な場」には、多くの宗教者や連歌師が訪れた。日蓮宗が積極的に活動した事が知られている。
- 海晏寺
- 「龍燈松」の伝承があり、灯台的な機能を持っていたと考えられる。榎本道琳の後援を受ける。本尊は鮫洲の由来である。鮫は鈴木氏・榎本氏・宇井氏など熊野三党(三苗)の家紋である。
参考文献
- 岡野友彦『家康はなぜ江戸を選んだか』 ISBN 978-4316357508
- 綿貫友子『中世東国の太平洋海運』 ISBN 978-4130260671
- 『中世の風景を読む〈2〉都市鎌倉と坂東の海に暮らす』 ISBN 978-4404021571
- 柘植信行「開かれた東国の海上交通と品川湊」
脚注
関連事項
外部リンク
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2008年4月8日 02:04 版 改訂履歴 Text is available under GNU Free Documentation License. |