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伊良部秀輝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

伊良部秀輝
Hideki Irabu
基本情報
国籍 image:Image:Flag of Japan.svg 日本
出身地 兵庫県尼崎市
生年月日 1969年5月5日(40歳)
身長
体重
193cm
108kg
選手情報
投球・打席 右投右打
守備位置 投手
プロ入り 1987年 1位
初出場 NPB / 1988年5月7日
MLB / 1997年7月10日
最終出場 2004年6月11日
経歴
Template  ウィキプロジェクト 野球選手

伊良部 秀輝いらぶ ひでき1969年5月5日 - )は、元プロ野球選手投手)。沖縄県平良市(現・宮古島市)生まれ、兵庫県尼崎市出身。

目次

来歴

プロ入り前

常光寺小、若草中学を卒業後香川県に引越し、尽誠学園高等学校に進学して1986年1987年夏の甲子園に出場した。

ロッテ入団

1987年ドラフトロッテから1位指名されて入団。1年目から1軍のマウンドを経験。

1993年日本ハム大沢啓二監督(当時)がマスコミ相手に「幕張の浜で伊良部クラゲに刺された、イテテテ…」と言ったことから「伊良部クラゲ」の異名がつく。 またこの年5月3日、西武清原和博との対戦時に158km/hをマークしたことはよく知られている。そのボールを清原はファウルし、次の157km/hのボールを右中間に二塁打される。以後、清原和博との対決は「平成の名勝負」とうたわれることとなる。また、プロ野球史上最速とも噂される163km/hがでたのもこの日である。

1994年には最多勝のタイトルを獲得、パリーグを代表する投手となる。バレンタイン監督時代の1995年にも小宮山悟エリック・ヒルマンとともに先発投手陣三本柱として、シーズン2位に貢献、自身も最優秀防御率のタイトルを獲得した。

メジャーリーグ移籍騒動

1996年、2年連続で最優秀防御率、3年連続最多奪三振のタイトルを獲得し全盛期を迎えていた伊良部は、大リーグ入りを希望するようになった。近鉄を退団してドジャースに移籍した野茂英雄の活躍に触発されたことや、アメリカに居るであろうまだ見ぬ実父(在日米軍基地に来ていた米国軍人)に会うためと言われている。

また、ロッテを退団した理由は当時の広岡GMとの確執だと言われていたが、実際のところ2人は仲が悪いわけではなく、むしろ親しい関係だった。伊良部の「(広岡の)オッサン」発言も、実は普段から広岡のことを「オッサン」と呼んでいただけにすぎないと言われている。

ロッテにメジャーのヤンキースへの移籍を直訴するも、FAの権利を有していなかったため、球団側は保有権を盾に拒否した。伊良部は代理人団野村と共に、日本球界全体、メジャー球団をも巻き込んで、大騒動を巻き起こし、これが「ポスティングシステム」の確立に繋がることになる。

当初、球団側はパドレス球団にトレード、という形で決着を図ったが、伊良部は「俺は土地や建物じゃない。人身売買のようなことは許せない」と拒否、あくまでもヤンキース移籍に拘る。最終的に、一度パドレスにトレード後、更にヤンキースにトレード、という三角トレードで解決を見た。結局この騒動が、「伊良部=ダーティ」なイメージを根付かせる結果となった。

ヤンキースへ

メジャー移籍1年目は期待通りの活躍をし、ジョージ・スタインブレナーオーナーから「和製ノーラン・ライアン」と称された。しかし、次第に成績が下降線になると、いつの間にか「太ったヒキガエル」、「IRABOO」(BOOとはブーイングの事)と罵倒された。めった打ちにされた試合でベンチにさがる時に、ファンに唾をかけたことから「ビッグ・チャイルド」とまで言われる始末だった。もっとも、スタインブレナーオーナーの口汚さは有名で、他の選手は非難されても聞き流すことが多いが、伊良部は真面目に受け取ったとも評されている。3年間で29勝を挙げたにも関わらず、2005年12月18日ニューヨーク・タイムズ』に、「ヤンキースで活躍できなかった投手」としてトップに挙げられる。

ヤンキース時代にはワールドシリーズを制し、アジア選手として初めてチャンピオンリングを手にした。しかし、プレーオフ、ワールドシリーズで登板する機会は与えられなかった。結局、エクスポズレンジャーズへとトレードされた。レンジャーズではクローザーとして活路を見出し、シーズン途中までは大車輪の活躍を見せるも、肺血栓を患いリタイア。オフにレンジャーズを解雇される。

阪神タイガースへ

2002年のオフ、「日本球界に復帰してもいい」という情報を掴んでいた阪神が獲得する。星野仙一監督(当時)はクローザーを任せたかったようだが、本人が先発を希望したため、先発要員となる。

2003年は13勝を挙げただけでなく、安藤優也ら若手投手を指導し飛躍させるなど、阪神の18年ぶりのリーグ優勝に大きく貢献した。オールスター第二戦では古巣ロッテの本拠地千葉マリンスタジアムで好投するなど活躍した。しかし、後半戦は球のキレが落ち、野手陣の故障もあって勝ち星は伸びなかった。9月15日の優勝決定日の試合も好投したが、サヨナラ勝ちの試合に途中降板したため勝利投手にはなっていない。日本シリーズでは第2戦、第6戦に登板するも、機動力抜群のダイエーの前に翻弄され、全く活躍できないまま終わる。特に第6戦でも第2戦と全く同じようにやられてしまったことから、ファンに「日本一を逃した戦犯」扱いをされてしまった。実際は第2戦、第6戦ともに打線は杉内俊哉の前にほぼ完全に沈黙させられており、投打ともに振るわなかったのが敗因と言える。

伊良部は妻子をアメリカに残しての単身赴任状態であり、本人のメジャー復帰希望の意思もあり、FAを宣言する。しかし結局獲得球団が現れないまま、前所属の阪神とバイアウト(複数年契約だが2年目の契約については球団に選択権があり、球団側が契約を締結しない場合は違約金を支払って解雇できるシステム)による変則複数年契約を結び、阪神に残留する。ところが、2004年は沖縄キャンプ中に居酒屋でトラブルを起こし、また、開幕早々に日本シリーズで露呈した欠点を衝かれ、登板数は3試合のみ、防御率は13.11という不調もあって、2004年限りで解雇された。

2005年3月上旬に、現役引退を表明した。この事が岡田彰布監督によって明らかにされたのは4月6日の事である。阪神は当初、2003年のリーグ優勝に貢献した実績から引退会見の場を用意していたという。一説によれば、引退の原因は、持病の足の関節の痛みによるとのこと。

現在

現役引退後に再び渡米し、グリーンカード(外国人永久居住権)を取得して実業家に転身。本人の談話でも、実業界に進出する意向を明らかにしていた(外部リンク参照)。カリフォルニア州ロサンゼルスうどんフランチャイズチェーン「SUPER UDON」を開業し、自らレシピを吟味し厨房にも立ったが、成功には至らず閉店した。

2007年9月13日にTBSで放映された「波瀾万丈ドキュメント 俺たちはプロ野球選手だった」というドキュメンタリー番組で、永住権をとって移住したアメリカでの悠々自適の生活が紹介された。過去の自分を振り返り反省し、読書に親しむ変貌ぶりや、アメリカのブックオフ星野監督の著作を買う姿、そして久しぶりにキャッチボールをし、相手に捕手役を頼んで最後にはマウンドから現役時代を彷彿とさせるフォームで投球練習をする姿などが見られた。

日本最速投手の1人として

「日本プロ野球史上最速の投手は誰か」といった議論の際に、必ずといって良いほど名を挙げられる投手である。1993年の5月3日の西武戦で伊東と対戦した際の163km/hは日本人投手が日本国内の球場設置のスピードガンで計測したものとしては今なお最速のものである。ただし、スピードガンは国や球場ごとにバラつきが出る上、球速には公認記録や公式記録といった扱いはない。なお、他に投球がバットにあたらずに球場、テレビ設置のスピードガンが160km/h以上を記録したのは、NPBの選手ではマーク・クルーンが記録した161km/h、松坂大輔が日本国外の球場で記録した160km/hがある。

日本では速球派の代表格であり、「イラブーくん」などのネーミングが付けられている速球マシンを置くバッティングセンターが現在でも多数存在している。

ただし、速球が武器であったがそれに頼る投球は年を重ねると共に変化していった。無骨に見えて理論派であり、その投球理論には球界を代表する技巧派投手・小宮山悟やコンディショニングの第一人者・立花龍司も舌を巻くほどと言われる。牛島和彦も「投球フォームの腕を上げる高さから足を下ろす位置、それによる球の軌道までをミリ単位といえる細やかさで考えているのが伊良部という投手」と語っている。

人物・エピソード

  • 高校時代から素行はよくなく、当時日本ハムのフロントにいた大沢啓二は投手としての素質は認めたが、「ああいうタイプは将来問題を起こす」として「獲得しない方が良い」と進言したと言う。
  • 昔から口下手で、あまりマスコミと接するのが得意ではなかったが、1996年のシーズン中のメジャー移籍の騒動から険悪なものになった。伊良部はマスコミを「なんでもすぐ群がるイナゴ」とこき下ろし、投球練習でわざと暴投して記者にボールをぶつけることもあった。
  • 阪神在籍時には若手投手を積極的に指導するなど、親身になる人間のようである。井川慶を「野茂さん以来の天才」と評し、また下柳剛広澤克実は「嫌な奴に見えるけど、こんなに面白くて良い奴はなかなかいない」と話している。しかし、ヤンキース在籍時について、デレク・ジーターは「伊良部と打ち解けようとしたが、彼は打ち解けてくれなかった」と語っている。
  • 打席ではゆったりと構えており、特に犠牲バントの際にはやる気のなさそうな様子で立っていたが、非常に成功率が高く、在籍当時の阪神では同い年の久慈照嘉と共にその上手さが際立っていた。また、バッティングもここぞという場面では優れており、高校時代は代打本塁打をしばしば放っていたという。
  • 歌唱力は高く、2003年の阪神優勝時に選手会がチーム首脳陣を代表して星野監督を招いて大阪市内で開かれた宴席の席上、カラオケアニメソングを歌ったところ、選手はおろか星野監督にまで大絶賛された。なお、宴席を終えた星野監督は曲目について、「それは言えない。言ったら殺されるぞ。」とコメントした。広澤克実は、自ら『元祖天才バカボン』を選曲し、伊良部を指名して歌わせたと後に語っている。
  • 好物はプリンで、上に胡麻をかけて食べるのが好きらしい。これは若手投手にも勧めたという話もある。
  • 漫画家山上たつひこの代表作「がきデカ」の主人公、こまわり君に酷似していることでも知られ、彼に関する説明の際にしばしば引合いに出されることもある。
  • ボキャブラ天国で尾崎豊の「I LOVE YOU」を「あ、伊良部~」ともじったネタに映像出演した。

タイトル・表彰

通算成績

太字はリーグ最優秀成績

年度 所属 背番号 試合 投球回 勝利 敗戦 セーブ 勝率 奪三振 与四死球 被安打 自責点 防御率
1988 ロッテ 18 14 39.1 2 5 1 .286 21 18 30 17 3.89
1989 ロッテ 18 33 51.0 0 2 9 .000 50 27 37 20 3.53
1990 ロッテ 18 34 123.2 8 5 0 .615 102 72 110 52 3.78
1991 ロッテ 18 24 100.2 3 8 0 .273 78 70 110 77 6.88
1992 千葉ロッテ 18 28 77.0 0 5 0 .000 55 37 78 33 3.86
1993 千葉ロッテ 18 32 142.1 8 7 1 .533 160 58 125 49 3.10
1994 千葉ロッテ 18 27 207.1 15 10 0 .600 239 94 170 70 3.04
1995 千葉ロッテ 18 28 203.0 11 11 0 .500 239 72 156 57 2.53
1996 千葉ロッテ 18 23 157.1 12 6 0 .667 167 59 108 42 2.40
2003 阪神 41 27 173.0 13 8 0 .619 164 47 186 74 3.85
2004 阪神 41 3 11.2 0 2 0 .000 7 4 26 17 13.11
計 11年間 NPB 273 1,286.1 72 69 11 .511 1,282 558 1,136 508 3.55
1997 NYY 35 13 53.1 5 4 0 .556 56 20 69 42 7.09
1998 NYY 35 29 173.0 13 9 0 .591 126 76 148 78 4.06
1999 NYY 35 32 169.1 11 7 0 .611 133 46 180 91 4.84
2000 MON 14 11 54.2 2 5 0 .286 42 14 77 44 7.24
2001 MON 14 3 16.2 0 2 0 .000 18 3 22 9 4.86
2002 TEX 45 38 47.0 3 8 16 .273 30 16 51 30 5.74
計 6年 MLB 126 514.0 34 35 16 .493 405 175 547 294 5.15

関連項目

外部リンク

先代:
野茂英雄
野田浩司
パ・リーグ最多勝投手
1994年
次代:
K.グロス
先代:
野茂英雄
パ・リーグ最多奪三振
1994年-95年
次代:
工藤公康
先代:
新谷博
パ・リーグ最優秀防御率
1995年-96年
次代:
小宮山悟
ロッテオリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)
1987年ドラフト指名選手
1位:伊良部秀輝 / 2位:里見祐輔 / 3位:堀幸一 / 4位:小林茂生 / 5位:山下徳人 / 6位:大村巌

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2008年4月8日 02:04 版 改訂履歴
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