九十九里浜
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九十九里浜(くじゅうくりはま)は、千葉県房総半島東岸にある刑部岬と太東崎の間の、旭市飯岡から一宮町東浪見までの、太平洋に面している約60キロの海岸。日本の白砂青松100選と日本の渚百選に選定されている。
古名は玉浦(玉の浦)であるが、源頼朝の命で6町(1町は約109メートル)を1里として、1里ごとに矢を立てたところ99本に達したという伝承から「九十九里浜」と言われるようになったとの説が有名で、中央とされる山武市蓮沼地区には箭挿(やさし)神社がある。またその故事に因んで、矢指浦の別称がある。
- まん丸や、箭挿(やさし)が浦の月の的 ---- 源頼朝
大坂冬の陣の前年の慶長18年(1613年)、徳川家康の命により、江戸城と九十九里浜の中央を結ぶ(鷹狩を名目とした軍事プレゼンスとされる)、ほぼ一直線の道路が作られた。このルートは大政奉還後、小間子牧の開墾(佐賀藩)、陸軍練兵場=現在の自衛隊下志津駐屯地(明治新政府)、房総導水路東金ダム(水資源開発公団)などによって分断されたが、山武市小松~ が、千葉県道124号緑海東金線(砂押県道)、 ~船橋は、千葉県道69号長沼船橋線(船橋から江戸城までは京葉道路)として現存している。また江戸時代には、現在の白子町や大網白里町、九十九里町などの九十九里浜の南部の地域では紀州漁民の入植が盛んとなり、紀州とのつながりと漁業による繁栄があり、「九十九里浜といえば地曳網によるいわし漁」のように言われるようになった。
源頼朝以前については体系だった記録に欠けるものの、中央部の栗山川河口南西側の横芝光町屋形はその地名が上総介平良兼の屋形があったことに由来するとされ平高望や良兼との、また北東側の匝瑳市生尾にある老尾神社(式内社)は物部小事との関係が伝えられており、10世紀以前には上総平氏(坂東平氏)や匝瑳物部氏(物部匝瑳連)の拠点があったとされている。
さらに遡ると、貝塚の他多数の丸木舟の出土例があり縄文時代から人類の活動の盛んだった地域で、日本列島に沿って北上する黒潮がここを境に日本列島から離れる個所であり、「黒潮文化」の北限に位置している。だがその一方栗山川は、「サケの回帰の南限の川」とされ、親潮の影響を受ける南端の地域でもある[1]。
沿岸の自治体
脚注
- ^ なお栗山川のサケの回帰についてであるが、上流の旧山田町(現・香取市、サケの神社:山倉大神がある)の記録によれば、昭和30年代までは自然遡上していたとのことである。しかし両総用水と房総導水路の取水堰(横芝堰)があるため現在は自力では遡上できないので、堰近辺で捕獲し、採卵して横芝光町の小学校の児童が育て、放流している。
関連項目
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2008年4月8日 02:04 版 改訂履歴 Text is available under GNU Free Documentation License. |