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ジョン・レノン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ジョン・レノン
image:Image:Lie In 15 -- John rehearses Give Peace A Chance.jpg
ジョン・レノン、1969年
基本情報
出生名 ジョン・ウィンストン・レノン→
ジョン・ウィンストン・オノ・レノン
出生日 1940年10月9日
学歴 リヴァプール・カレッジ・オブ・アート中退
出身地 image:Image:Flag of England.svg イングランドリヴァプール
死没日・地 1980年12月8日(40歳没)
image:Image:Flag of the United States.svg アメリカ合衆国ニューヨーク
ジャンル ロック
職業 シンガーソングライターハウス・ハズバンド
担当楽器 ギターピアノハーモニカベースなど
活動期間 1962年1976年
1980年
レーベル EMI
事務所 アップル・コア
共同作業者 オノ・ヨーコフィル・スペクター
影響 エルヴィス・プレスリーバディ・ホリーチャック・ベリー
公式サイト www.johnlennon.com
著名使用楽器
リッケンバッカー325
ギブソンJ-160E
エピフォンカジノ
  

ジョン・レノン MBEJohn Winston Ono Lennon, MBE-ジョン・ウィンストン・オノ・レノン, 1940年10月9日 - 1980年12月8日)は、20世紀に活動した歌手作詞作曲家ギタリストである。英国リヴァプール生まれ。ロックバンドザ・ビートルズ」のリーダー格のメンバーであった。身長は5フィート11インチ(約180cm)。

MBE(大英帝国勲章)受勲時の本名はJohn Winston Lennon, MBEオノ・ヨーコと結婚後ミドルネームのWinstonをOnoへ変更しようとしたが、認められずJohn Winston Ono Lennonと改名。

目次

概説

世界で最も著名なシンガーソングライターの一人である。ビートルズ時代には、ポール・マッカートニー作詞作曲タッグを組み、リードボーカルをとる「ヘルプ! (楽曲)」「ア・ハード・デイズ・ナイト」「プリーズ・プリーズ・ミー」「ノルウェーの森」「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」「愛こそはすべて」等、数多くの曲を残した。 ビートルズ解散後は「イマジン」などの曲を発表する一方、妻で芸術家のオノ・ヨーコとともに平和運動家としても活動した。ギネスワールドレコードでは「最も成功したソングライター」としてチャート1位の曲が米国で盟友のポール・マッカートニーが32曲、レノンが26曲(共作は23曲)、英国チャートでレノンが29曲、マッカートニーが28曲(共作が25曲)と紹介されている。

1980年12月8日(現地時間)、ニューヨーク市の自宅アパート「ダコタハウス」前において、狂信的な元ファンに殺害された。

生い立ち

1940年10月9日の午後6時30分、第二次世界大戦のナチス・ドイツによる空襲下に置かれたリバプールで誕生。出生当時、父アルフレッドは商船隊員として航海中で不在、母ジュリアも他の男性と同棲していたため、ジュリアの姉であるミミ夫婦のもとで育てられることとなる。

1946年、アルフレッドが帰国し、アルフレッドに引き取られ数週間一緒に暮らすものの、ジュリアがジョンを連れ戻す。しかし母親と暮らす事はできず、ふたたびミミ夫婦のもとに預けられ、父親もまた行方がわからなくなってしまう。

1952年9月グラマー・スクールのクオリー・バンク校に入学したジョンは、ケンカばかりの不良と評判になっていた。1956年のある日、エルヴィス・プレスリーの「ハートブレイク・ホテル」を聴き、ロックンロールの洗礼を受ける。この頃ジュリアが近くに住んでいる事を知ったジョンは、ジュリアの家を行き来するようになる。ジュリアはジョンにバンジョーの演奏法を手ほどきし音楽への関心を向けさせることとなった。

1957年、処女作となる「ハロー・リトル・ガール」を作曲(この曲は1962年デッカのオーディションの際に歌われ、「アンソロジー1」で公式に発表されることとなる)。

クオリー・バンク時代の1957年3月、ビートルズの前身になるスキッフルバンド「クオリーメン」を結成、7月6日、ウールトンのセント・ピーターズ教会で行ったクオリーメンのコンサートで、共通の友人の紹介によりポール・マッカートニーと初めて出会う。数日後、ポールはクオリーメンのメンバーになった。

エルヴィス・プレスリーチャック・ベリーバディ・ホリーと言ったアメリカロックンロールに夢中になり、勉学はどんどんおろそかになっていき、通信簿に載せられた成績は最低レベルだった。ジョンはクオリー・バンクを卒業後、同校校長の取り計らいでリヴァプール・カレッジ・オブ・アートに入学する。そこで最初の妻となるシンシア・パウエルと出会う。

1958年2月、ポールの紹介でジョージ・ハリスンがクオリーメンに加入。

1958年7月15日、母ジュリアは飲酒運転の車にはねられ死去。このジュリアの死は、ジョンの後の歌に大きな影響を与え、また14歳の時に母親を乳癌で失っていたポールとの友情を固める要因にもなった。ジョンの辛辣な性格やマザー・コンプレックス(年上の女性への憧れ)は、このような孤独な幼年期、少年期を過ごしたからだといわれている。

1959年1月、バンドのメンバーはジョン、ポール、ジョージ3人だけになる。

1960年1月にリヴァプール・カレッジ・オブ・アートでの友人のスチュアート・サトクリフがメンバーに加わり、バンド名も「クオリーメン」から「ジョニー&ザ・ムーン・ドッグス」そして「ザ・シルバー・ビートルズ」と変わっていた。同年8月「ザ・ビートルズ」になりピート・ベストが加入した。サトクリフは画家になるため、1961年に脱退。

1962年6月にパーロフォンとレコーディング契約を結ぶ。8月ピート・ベストが解雇され、リンゴ・スターが加入。

1962年10月5日「ザ・ビートルズ」としてデビューを果たす。

最初の結婚

1962年8月23日、ジョンはシンシア・パウエルが妊娠したのをきっかけに彼女と結婚した(今で言う出来ちゃった婚である)。ジョンとシンシアの結婚はシンシアが一方的にジョンを愛するものであったといわれているが、真相は全く逆であることが判明。最近のシンシア著「ジョン・レノンに恋して」では、ジョンによるシンシアへの熱いラブレターが証拠として載っている。ジョンから恋してシンシアも恋をし結ばれたのである。二人は1968年に離婚している。

シンシアとの間の息子、ジュリアン・レノン1963年4月8日に誕生した。ジョンは息子ジュリアンに対して冷淡であり、ジュリアンはむしろポールと親しかった。彼は後にこう語っている。

「父さんが僕についてどんなふうに思っていたか、本当のところを知りたいと思ったことは無い。非常に嫌なことを言われたんだ。土曜日の夜にウィスキーのボトルを開けたせいでお前が生まれてきたんだ、とかね。これのいったいどこに愛なんてあるんだ。ポールはかなり頻繁に遊んでくれたよ。父さんよりね。僕らはいい友人だった。その頃の僕とポールがいっしょに遊んでいる写真は、僕と父さんの写真よりもはるかに多い」

両親と生活したことのないジョンは、どうやって息子と接すればいいのかがわからなく戸惑っていたという。 ポールと楽しそうに遊ぶジュリアンを見たジョンに「どうしたらジュリアンが喜ぶか教えてくれないか?やり方が判らないんだ」そう聞かれたことがあるとポールは語っている。

ちなみに、ジョンとシンシアの仲が険悪で喧嘩ばかりしていた時、ポールがジュリアンを励ますために作った曲が「ヘイ・ジュード」である。

キリスト発言

1966年3月4日ロンドンイブニング・スタンダード紙のモーリーン・クリーヴとのインタビューでジョンは次の様な発言を行った。

キリスト教は消えて無くなるよ。そんなことを議論する必要はない。僕は正しいし、その正しさは証明される。僕らは今やイエスよりも人気がある。ロックン・ロールとキリスト教。そのどちらが先に無くなるかは分からない。イエスは正しかったさ。だけど弟子達がバカな凡人だった。僕に言わせれば、奴らがキリスト教を捻じ曲げて滅ぼしたんだよ」

その発言はイギリスではほとんど無視され、大きな反響を呼ばなかったが、同年7月にアメリカのファンマガジン『デートブック』に再収録されると、バイブル・ベルトキリスト教根本主義が信奉される南部や中西部)の保守宗教団体によるアンチ・ビートルズ活動に結びついた。ラジオ局はビートルズの曲の放送を禁止し、彼らのレコードやグッズが燃やされた。スペイン及びバチカンはジョンの言葉を非難し、南アフリカ共和国はビートルズの音楽のラジオ放送を禁止した。最終的に、1966年8月11日にジョンはシカゴで以下のように釈明会見を行い、バチカンも彼の謝罪を受け入れた。

「僕がもし、“テレビがイエスより人気がある”と言ったなら、何事もなかったかもしれない。あの発言には後悔しているよ。僕はに反対しないし、反キリストでなければ反教会でもない。僕はそれを攻撃したわけでもなければ、貶めたわけでもない。僕はただ事実を話しただけで、実際アメリカよりイギリスではそうなんだ。僕はビートルズがイエスより良くて偉大だとは話してないし、イエスを人として僕らと比べたりもしていない。僕は僕が話したことは間違っていたと話したし、話したことは悪く取られた。そして今全てがこれさ」

ジョンとヨーコ

1966年にビートルズがライブ・ツアーを休止しその活動に一つの区切りをつけた後、ジョンは映画『How I Won The War』(当時の日本では上映されず、1993年ビデオで初めて発表された。邦題:『ジョン・レノン僕の戦争』)に出演。また、その年にロンドンのインディカ・ギャラリーで彼は後に二人目の妻となるオノ・ヨーコに出会った。二人は同年の『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』の録音期間中より、ヨーコの個展にジョンが出資するなどして交際を始めた。ジョンは1968年2~4月のインドでの修行中も、シンシアを同行させていながら、ヨーコと密に文通で連絡を取り合っていた。5月、ヨーコへの思慕を募らせたジョンは、シンシアの旅行中にヨーコを自宅に招き入れ、以後ヨーコはジョンとの同棲生活を始めた。シンシアはその年の7月に離婚申請を行い、11月8日に離婚が成立した。

ジョンにとってヨーコの存在は公的にも私的にも不可分となり、ビートルズのセッションにも影響を与えた。ビートルズのグループとしての音楽製作に他人が深く入り込むことに違和感を覚えた他メンバーとの間に不協和音を生じることも多かった。後に、マスコミや一部のファンから、ヨーコはビートルズ解散の原因として不当に責められることともなった。

1969年3月にジョンとヨーコはジブラルタルで挙式し、新婚旅行で訪れたアムステルダムで「ベッド・イン」という平和を訴えるパフォーマンスを行った。彼らは多くのメディアから奇妙なカップルとして取り上げられる一方、反戦運動における重要人物としても見なされるようになった。このほかにも1969年以降は、ジョンはヨーコと共にプラスチック・オノ・バンドとしての活動やベトナム戦争に対する反対と平和を求める活動に多くの時間を費やし、ビートルズは実質的に解散状態となっていった。

結婚後間もなくジョンはミドルネームのWinston(イギリスの首相ウィンストン・チャーチルにちなんで名付けられた)からOnoへの変更を申し立てたが、変更は認められずパスポート、グリーンカードなどはJohn Winston Ono Lennonと表記されている。

ジョンの本格的なソロ活動前に二人は実験的・前衛的な『トゥー・ヴァージンズ』、『ライフ・ウィズ・ザ・ライオンズ』、『ウェディング・アルバム』の3枚のアルバムを発表した。またジョンのソロ時代発表されたアルバムと対になって『ヨーコの心』(1970年)、『フライ』(1971年)、『無限大の宇宙』(1972年)、『空間の感触』(1973年)が発表され、それぞれにジョンがギタリストとして参加し、80年の『ダブル・ファンタジー』にいたる。

1975年10月9日、ジョン35回目の誕生日にショーン・レノンが生まれる。

ソロ・キャリア

レノンはビートルズ存続時の1969年にソロ活動を開始し、1975年に活動を休止するまでプラスティック・オノ・バンドPlastic Ono Band)名義で作品を発表している。正確には『平和の祈りをこめて~ライヴ・ピース・イン・トロント1969~』から『イマジン』まではプラスティック・オノ・バンド、『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ』ではジョン・アンド・ヨーコ・プラスティック・オノ・バンド・ウィズ・エレファントメモリー・アンド・インビジブルストリングス、およびプラスティック・オノ・スーパーバンド(フランクザッパが参加)、『マインド・ゲームス』ではプラスティック・U.F.Ono・バンド、『心の壁、愛の橋』ではプラスティック・オノ・ニュークリア・バンド名義で作品を発表している。名称に異同があるがこのプラスティック・オノ・バンドはヨーコとのユニットでありメンバーは流動的であったが、ベースはビートルズ結成当時からの知り合いであるクラウス・フォアマン、ドラムはアラン・ホワイト(後にイエスに参加)、またはジム・ケルトナー、ピアノはニッキー・ホプキンスが担当する事が多かった。

ポピュラー音楽としてのジョンの最初のソロアルバムは、ビートルズ解散に先立つ1969年トロントで行われたプラスティック・オノ・バンド(Plastic Ono Band)としてのステージを収録した『平和の祈りをこめて~ライヴ・ピース・イン・トロント1969~』(米10位)であった。クラウス・フォアマンエリック・クラプトンが参加した。その模様の映像はDVDスウィート・トロント』に収録されている。

さらにジョンは1969年に2枚のシングル「平和を我等に」(英2位・西ドイツ4位・米11位)、「コールド・ターキー」(英13位)、をプラスティック・オノ・バンド名義で発表した。

1970年代

ビートルズ存続中1970年に「インスタント・カーマ」(英4位・米3位・カナダ1位・西ドイツ7位)を発表した。この曲は「レット・イット・ビー」とほぼ同時期に発表されチャートを上昇した。ビートルズ解散後には、プライマリースクリーミング療法を受ける中、アルバム『ジョンの魂』を発表。リンゴ・スターがドラマーとして参加し、その他にもビリー・プレストンが参加した。この中の「マザー」がシングルとして発表された。

1971年には『イマジン』(米1位、英1位、日1位)が発表された。ジョージ・ハリスン(ギター)、アラン・ホワイト(ドラム)、キング・カーティス(サックス)らが参加した。またこのアルバムの2曲に参加したドラマーのジム・ケルトナーが以後セッションに加わるようになる。

イマジン」は歌詞の無宗教的かつ社会主義的な内容からか、英国ではシングルの発表は1975年のベスト曲集『シェイブド・フィッシュ』の発表時まで延期され、米国でもアルバム発表後1ヶ月も経過してからシングルが発表されている(米国3位)。シングル「イマジン」は英国では1975年に5位を記録したあと、1981年に1位、1999年に3位を記録している。3回もップ10に入った曲は他には同じくレノンの「ハッピー・クリスマス(戦争は終わった)」(1972年4位、1981年2位、1999年3位)のみである。

次第に活動拠点を米国内に移す中、『イマジン』発表の三ヶ月後には、大麻使用により10年間の禁固刑をうけたジョン・シンクレアの救済コンサートに出演した。その後様々な市民運動、政治活動家と知り合う中、1972年発表の次作『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ』は、より政治的な内容の作品となった。ニューヨークのローカル・バンドのエレファンツ・メモリーがバックをつとめた。このアルバムでは、刑務所での暴動、人種問題や性差問題、北アイルランドの宗派同士による内争におけるイギリスの役割、およびアメリカ合衆国グリーンカードにまつわる彼自身の問題などについて歌われている。ジョンは1960年代後半以来、左翼政治に興味を持っており、トロツキスト社会主義労働者党に寄付を与えていた。このため、ジョンはFBIの監視の対象とされ、当時のニクソン政権下、電話を盗聴された可能性が指摘されている。このためから米国国外退去命令が出されるようになる。ジョンの死後に関係者の訴訟により膨大な量の調査報告書が公開されており、『ジョン・レノンの真実―FBI監視記録DE‐4~HQ‐33』(ジョン・ウィーナー著、角川書店2000年…現在絶版)で見ることができる。

1972年8月30日、ジョンはバックバンドのエレファンツ・メモリーと共に、精神障害児童を援助する2回の慈善コンサートをニューヨークのマディソン・スクウェア・ガーデンで行い、スティービー・ワンダーとは「平和を我等に」を共演したほかビートルズ時代の「カム・トゥゲザー」を披露した。このコンサート録音は『ライブ・イン・ニュー・ヨーク・シティ』として1986年に発表された。

1973年には『マインド・ゲームス』を発表した。この中ではゴードン・エドワーズ、マイケル・ブレッカーなど後年グラミー賞を受賞するジャズ・ミュージシャンを採用した。この前後、ヨーコのもとを離れ、ロサンゼルスで生活を始め、いわゆる『失われた週末』をリンゴやハリー・ニルソンザ・フーキース・ムーンらと過ごすようになる。またリンゴのソロアルバム『リンゴ』に参加し、「アイ・アム・ザ・グレーテスト」を提供しジョージ、リンゴと共演した。

1974年にはハリー・ニルソンの『プシー・キャッツ』をプロデュースした。この中でのストリングスを用いたアレンジを組み合わせて「夢の夢」が作曲された。同年、セルフ・プロデュースしたアルバム『心の壁、愛の橋』(米1位、英6位)を発表し、この中から「真夜中を突っ走れ」(米1位)、「夢の夢」(米9位)がシングルカットされた。「真夜中を突っ走れ」と「予期せぬ驚き」でエルトン・ジョンと共演したほか、ハリー・ニルソンとも「枯れた道」を共作している。

また、ビートルズ時代の「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」をエルトン・ジョンと共演し、これによりエルトンは3枚目の全米1位を獲得、彼のキャリアの確立にレノンは大きく貢献した。同時期、エルトン・ジョンのコンサートにゲストとして出演、「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」「真夜中を突っ走れ」を共演した。エルトンの取りなしでコンサート後、ヨーコと再会、ニューヨークへ戻った。この時期にはさらにミック・ジャガーの曲「トゥー・メニー・クックス」をプロデュースする。この曲はジョンも共演したと噂されたが、実際はプロデュースだけである。長く未発表で、ファンの間では「幻の曲」とされたが、2007年発表の『ヴェリー・ベスト・オブ・ミック・ジャガー』に収録された。また、リンゴのソロアルバム『グッドナイト・ウィーン』に参加し「オンリー・ユー」(全米6位)をプロデュースした。

1975年にはカバー・アルバム『ロックン・ロール』(米6位、英6位)を発表。この中ではレオン・ラッセルらと共演。ここからは「スタンド・バイ・ミー」のヒットが生まれた。

この時期、デヴィッド・ボウイとの親交も深まり、ニューヨークでセッションし、ボウイの『ヤング・アメリカン』でビートルズ時代の「アクロス・ザ・ユニバース」を共演、さらにボウイ、カルロス・アロマーと「フェイム」を共作し、コーラスに参加した。この作品でボウイは初の全米1位を獲得した。ボウイによるとスタジオでの作業でジョンの発した「フェイム!」というかけ声から着想を得たという。ボウイはインタビューで「あれほどオリジナリティのある人は将来現れないであろう」と述べている。

同年にはベスト曲集『シェイブド・フィッシュ』を発表した。しかし、1976年にリンゴのソロ・アルバム『ロート・グラビア』に「クッキン」を提供した後、息子ショーン・レノンの養育に専念にするため音楽活動を休止した。

1980年代

その後、ほぼ5年間ジョンはハウス・ハズバンド業に専念していたが、1980年になって音楽活動を再開した。ショーンが偶然友達の家で見た映画イエローサブマリンの中でジョンを見つけ、「パパは本当にビートルズだったの?」と発した一言がきっかけとなったとする説があるが、本人は1980年のインタビューの中で否定している。5年間の彼にとっての新しい経験の中で生まれたアイデアをもとに、チープ・トリックとセッションを重ねた。同年11月ジョンはヨーコとの共作名義のアルバム『ダブル・ファンタジー』(米1位・英1位・西ドイツ2位・日1位・豪1位)を発表した。この中ではキング・クリムゾントニー・レヴィンを起用している。このアルバムからは「スターティング・オーヴァー」(米1位・英1位・カナダ1位・豪1位・ニュージーランド1位・西ドイツ4位・スイス1位・オーストリア1位)、「ウーマン」(米2位・英1位・カナダ1位・西ドイツ4位・豪3位・スイス2位・オーストリア12位)、「ウォッチング・ザ・ホイールズ」(米10位)などの大ヒット曲が生まれ、アルバムも全世界で500万枚以上を売り上げた。また同アルバムは1981年グラミー賞年間優秀アルバム賞を獲得し、授賞式に参加したヨーコは謝辞を述べた。

また没後1982年に代表曲を集めた編集版『ジョン・レノン・コレクション』(英1位)、1984年にヨーコの編集により『ダブル・ファンタジー』の続編で共作名義のアルバム『ミルク・アンド・ハニー』(米11位・英3位・日1位)が発表された。

殺害

1980年12月8日の午前中、自宅ダコタ・ハウスでジョンはローリング・ストーン誌掲載用写真のフォトセッション(撮影:アニー・リーボヴィッツ)に臨んだ。11月に発売されたニューアルバム『ダブル・ファンタジー』のジャケット写真(篠山紀信撮影)では、整髪料をまったくつけないマッシュルームカットヘアスタイルにトレードマークの眼鏡を外し、まるでビートルズ全盛期の頃のように若返った姿が話題を呼んだが、この日のジョンはさらに短く髪をカットし、グリースリーゼント風に整え、眼鏡を外して撮影に臨んだ。その姿はデビュー前、ハンブルク時代を彷彿とさせるもので、彼なりに初心に返って新たな人生を始めようとしているようでもあった。

image:Image:Lennon apartment.jpg
ダコタ・ハウス

フォトセッションを終えてしばらく自宅でくつろいだ後、午後5時にはヨーコの新曲「ウォーキング・オン・シン・アイス」のミックスダウン作業のため、レノンはニューヨーク市内にあるレコーディングスタジオ「The Hit Factory」へ出掛けた。この時、ダコタ・アパートの前には顔見知りの雑誌カメラマンと、ハワイホノルル出身の精神疾患を患ったファン、マーク・チャップマンが待ち構えていた。彼は以前ボブ・ディランに対するストーキング行為に及んだこともあり、ジョンにとって最後の生演奏となった1975年のスタジオ・ライヴでは観客席にその姿を見せている。

チャップマンはこの時、レノンのニューアルバム『ダブル・ファンタジー』を差し出し、彼にサインを貰った。この様子をカメラマンが撮影し、レノンの生前最後の写真は皮肉にも、数時間後に自らの生命を奪うことになる殺人犯とのツーショットになってしまった。

チャップマンは数日前にニューヨーク入りしており、宿泊したホテルの宿泊名簿の署名欄には、自らを「John Lennon」とサインしている。殺害当日の大半をダコタ・ハウスの近くで留まり、夕方にレノンにサインをもらったあと、両親を見送りにベビーシッターに抱かれて出ていたショーンとも握手をしている。

一方、レノン夫妻は「The Hit Factory」にてラジオ番組のインタビューを受ける。この最期のインタビューで、レノンは新や近況についてはおろか、学生時代に結成したビートルズの原型となるスキッフルバンド「クオリーメン」のこと、マッカートニーやハリスンとの出会いについても、懐かしそうに語っている。そして皮肉なことに、「死ぬならヨーコより先に死にたい」「死ぬまではこの仕事を続けたい」などと、まるで数時間後に自らに降りかかる悲劇を予言するかのような発言を残している。なお、このインタビューの一部は2001年にリリースされたアルバム『ミルク・アンド・ハニー』のリマスター盤に収録されている。

その後、チャップマンはレノンの帰宅を待つためにその場にとどまった。そして午後9時頃、セントラル・パークで行われた花火大会でドアマン(ホセ氏。ホセはチャップマンのことを知っていた)や通りにいた人々がいなくなったのを見計らい、アパートの前庭に忍び込んだ。午後10時50分、スタジオ作業を終えたレノンとヨーコの乗ったリムジンがアパートの前に到着した。レノンとオノが車から降りたとき、チャップマンは前庭に隠れ、レノンが彼の前を通り過ぎたとき暗闇から「ミスター・レノン?」と呼び止めると、を手に取り前に進み、両手で構え5発を発射した(チャップマンが撃った銃弾は特殊な弾で、ホローポイント弾―体内で弾が破裂する仕組みになっているもの―だった)。4発がレノンの胸、背中、腕に命中し、レノンは「撃たれた」と2度叫びアパートの入り口に数歩進んで倒れた。警備員は直ちに911番に電話し、セントラル・パークの警察署から警官が数分で到着した。

警官の到着時にレノンはまだ意識があったが、既に大量出血し、一刻を争う危険な状態であった。そのため、二人の警官が彼をパトロールカーの後部に乗せ近くのルーズベルト病院に搬送した。一人の警官が瀕死のレノンの意識を保たせるため質問すると、声にならない声で、自分がジョン・レノンであること、背中が痛いことを訴えたというが、ジョンの声は次第に弱まっていった。病院到着後、医師は心臓マッサージ輸血を行ったが、レノンは全身の8割の血液を失い、失血性ショックによりルーズベルト病院で午後11時過ぎに死亡した。伝えられるところによれば、レノンの死亡時に病院のタンノイ・スピーカーから流れていた曲はビートルズの『オール・マイ・ラヴィング』だったという。

事件後チャップマンは現場から逃亡せず、手にしていた『ダブル・ファンタジー』を放り出し、警官が到着するまで『ライ麦畑でつかまえて』を読んだり、歩道をあちこちそわそわしながら歩いていた。彼は逮捕時にも抵抗せず、自らの単独犯行であることを警官に伝えた。被害者がジョンであることを知った警官が、「お前は、自分が何をしでかしたのか分かっているのか?」と聞いたときにも、事も無げに"I just shot John Lennon."(「ジョン・レノンを撃っただけさ」)と答えた。ニューヨークWABCのリポーターはチャップマンを取り調べた警官の談話を聞いた。警官は「すごく事も無げにしていた」と語った。もう一人の警官はチャップマンを「田舎のイカれた奴」と語った。

病院でレノンの死を伝えられたオノ・ヨーコは泣き叫んだという。後に病院で記者会見が行われ、スティーヴン・リン医師はジョン・レノンが死亡したことを確認した。博士は「蘇生のために懸命な努力をしたが、輸血および多くの処置にもかかわらず、彼を蘇生させることはできなかった」と語った。

ジョンの射殺に関しては、当初、ケネディ大統領暗殺と同様のケースという主張や、「FBI関与説」なども持ち上がったが、現在は、冒頭の記述のように、「マーク・チャップマンの単独殺害」として結論づけられている(しかしオノや息子ショーン、先妻との息子ジュリアンはそれを信用していないといわれている)。また、当時「チャップマンはレノンの熱烈なファン」という報道と共に様々な憶測も飛び交ったが、同犯人はある種の精神疾患的な症状もあり、「熱烈なファン」という説明自体も疑問視されている。

この事件は、元ビートルズの3人にも大きなショックを与えた。マッカートニーの第一声は「くだらない(It's a drag.)」であり、この発言に対しては批判もあった。後に彼は音楽誌のインタビューでこの発言の真意について、以下のように述べている。

「うまい政治家ってたしかに頭の中に警報ボックスが埋め込んであって、何か言う前にそれを通してみて、発言が新聞の見出しになったさまが思い浮かべられるんだろうな。どうもパッとしないなと思えばうまく編集して喋れたりして。僕もたまにはそういうことができることもあるけどね、ああいう瞬間には僕の警報ボックスは窓の外に飛んでっちまうんだ。家にいてTVのニュースをただ見てるなんて、僕は嫌だった。ジョージ・マーティンが電話してきてセッションをキャンセルしたいかって言うんで、僕は『まさか。今日は一日中、働いてなきゃ』って言った。僕らはとにかく仕事を続けたわけだけど、みんな全く悪意なく冗談言うんだよね。『来週はビデオだ、よーし一発いくぞ』とか。一発いく、なんて聞いた途端に『ああーっ』だよ。ロを開くごとに、『一発』だとか『やられた』だとか、そういったとんでもない言葉を言ってしまうみたいでさ。遂に『だめだ、家に帰ろう。今日はもう仕事はなしだ』って思った。で、スタジオを出た途端に誰かが車の窓からマイクを突っ込んできて、それを僕は不覚にもつかんで…だって僕はそんなに内気な人間でもないし、ファンにむかって『どうもありがとう、僕は大丈夫だよ』って言うつもりだったんだ。でもともあれ、口から出た言葉は『ああ、くだらない』だった」

事件を境に、マッカートニーとジョージ・ハリスンはレコーディング作業を中断し、マッカートニーに至ってはこれをきっかけに自らのバンド、ウイングスを解散してしまうことになる。カナダに滞在中だったリンゴ・スターは後に妻となる女優のバーバラ・バックとともにニューヨークに飛び、ヨーコとショーンを見舞った。その後、マッカートニーは「ヒア・トゥデイ」を、ハリスンは「過ぎ去りし日々」(ポール、妻のリンダ、デニー・レイン、ジョージ・マーティンがバックコーラスで、リンゴがドラムで参加)をレノンの追悼曲として発表した。

また世界中のミュージシャンたちもこの事件にショックを受けた。ローリング・ストーンズギタリストキース・リチャーズに至っては「ジョンを殺した犯人に対しては、憎しみが薄れる事は無く増すばかりだ」「ジョンを殺した奴を、オレが必ず撃ち殺してやる」とまで発言している。

日本ではザ・ビートルズ・クラブにファンからの電話が殺到し、同クラブ主催による追悼集会が日比谷野外音楽堂で行われ、『心の壁、愛の橋』のフォトセッションでの巨大写真が掲げられ、ステージにはその後キャンドル片手に街を行進した。その後も節目ごとに追悼イベントが行なわれている。

レノンの音楽性の発展

ビートルズ時代

1960年代、ジョンはロックンロールに大きな影響をもたらし、このジャンルをそれまでの限界を越えて発展させた。ポールと共に、20世紀において屈指の影響力のあったシンガー・ソングライターであり、ミュージシャンであると広く認知されている。ジョンが単独あるいは中心となって書いた曲は、内省的であり、一人称で書かれた個人的な内容であることが多い。ジョンのこうした作風とポールの全体として楽天的でポジティヴな作風とは、ビートルズの楽曲においてしばしば好対照をなしている。

ビートルズ初期におけるレノン=マッカートニーの緊密な共作においては「シー・ラヴズ・ユー」「抱きしめたい」「エイト・デイズ・ア・ウィーク」などにおける開放感のあるサビのメロディーがジョンによるものであることが知られている。ジョン本人が触れているように、「ア・ハード・デイズ・ナイト」「ヘルプ!」などで聴かれるややブルージーでマイナー調のメロディーは、共作者ポールの楽天的に聴こえるメロディーに陰をつけ曲に哀愁感をもたらした。

中期においては両者の共作のあり方は変化し、ポール主体の楽曲「ミッシェル」「恋を抱きしめよう」「シーズ・リーヴィング・ホーム」「ウィズ・ア・リトル・ヘルプ・フロム・マイ・フレンズ」などにおいては、ミドル・エイトと言われるブリッジの部分の作詞作曲をレノンが担当しており、その中でも「ミッシェル」の繰り返されるリフレインは代表的なものである。またレノン主体の楽曲では「デイ・トリッパー」「イン・マイ・ライフ」「愛こそはすべて」などがある。また効果音を「イエロー・サブマリン」で積極的に導入した。

後期においては単独作が増え、「グッド・ナイト」「アクロス・ザ・ユニバース」「ビコーズ」のような透明感のある美しいメロディーを持つ曲や、「ヤー・ブルース」「カム・トゥゲザー」のようなブルース・ロックの名曲を発表した。(参考文献 集英社「プレイボーイ」(1981年)1月号「ジョンレノン・ラストインタビュー」、シンコーミュッジック「ビートルズの軌跡」(1979年)所収1971年インタビュー)

ソロ時代

こうしたビートルズ時代に比べ、ソロではよりシンプルな和声の進行と歌詞に特徴づけられる曲調へと変化し、「ヤー・ブルース」「カム・トゥゲザー」の路線を継ぐ「マザー」「コールド・ターキー」「ウェル・ウェル・ウェル」「真実が欲しい」「アイム・ルージング・ユー」のようなヘビーなロックを発表している。そして、何より「インスタント・カーマ」や「ノーバディー・トールド・ミー」のような早口のラップ調のボーカルが特徴の軽快なロックが「愛こそはすべて」の路線を引き継ぐレノンの真骨頂を示している。

また「ラヴ」「ウーマン」「グロー・オールド・ウィズ・ミー」のような美しいメロディーからなる曲がある一方でビートルズ時代の「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」「ジュリア」のように繊細なメロディーで、かつ不安定な和声進行を示す独特の曲調は、同時期(1967~68年)にその原曲が書かれたとされる「ジェラス・ガイ」へと発展した。

また、レゲエカリプソのリズムはビートルズ時代の「オブラディ・オブラダ」での有名なレノンのオルガン・プレイが先鞭をつけたが、さらに「マインド・ゲームス」における本格的なレゲエの導入へと至った。1980年のインタビューではレゲエのリズムを共演ミュージシャンに説明することを要したとの発言がある。ブラック・コンテンポラリー調の曲が多い『心の壁、愛の橋』の「愛を生き抜こう」ではビートルズの「ハッピネス・イズ・ア・ウォーム・ガン」以来の通作形式による複雑な楽曲構成に挑んだ。

こうした中でレノンの作曲の到達点の一つといえるのは、わずか15分で書かれたといわれる「ウーマン」である。この中で半小節ごとに変化する和声進行に従って、ギターの美しいアルペジオのフレーズが奏でられ、最終部で半音階上昇などカデンツにさまざまなテクニックが駆使された楽曲となった。曲の着想はビートルズ時代の「ガール」を発展させたとレノンが1980年のインタビューで述べている。他に惜しまれるのは最後の名曲といわれる「グロー・オールド・ウィズ・ミー」がシンフォニー調に作編曲される予定であったものが未完に終わった事である。この曲は後にジョージ・マーティンによりストリングスが書き加えられた。

編曲・プロデュース

レット・イット・ビー』でのアレンジを高く評価したレノンはビートルズ末期のシングル「インスタント・カーマ」に続いて、ソロ前期『ジョンの魂』『イマジン』ではプロデューサーにフィル・スペクターを起用した。スペクターはストリングスを用いた厚い音による編曲が特徴で、「音の壁(Wall Of Sound)」の代名詞で知られる。しかしながら、両作品ともアレンジはそれとは異なり、レノンの目指すシンプルな音作りに徹していた。

ソロ後期の『マインド・ゲームス』『心の壁、愛の橋』『ロックンロール』、復帰後の『ダブル・ファンタジー』では、セルフ・プロデュース(『ロックンロール』では一部をフィルスペクターが担当、『ダブル・ファンタジー』はジャックダグラス、ヨーコが共同プロデュース)により共演者に敬意を払いながらセッションの中でアレンジを組み立てていった。これが、かえって共演者の敬意を得ていたという多くの発言(デビッド・スピノザ、トニー・レヴィンなど)があることはレノンの人柄を忍ばせる。マインド・ゲームスに参加したスピノザなどのインタビューによれば、レノンはスタジオミュージシャンを使って基本ラインを録音したあと、レノン自身のギター、スライドギターなどによる音を緻密に重ねて優れたオーケストレーションを造り出したという。ビートルズ以来のベースのクリシェ、分散和音的なアプローチを積極的に取り入れている。『心の壁、愛の橋』ではストリングス、ホーンも多用した厚い編曲を行った。「果てしなき愛」などブラック・コンテンポラリーの曲調が多いことは、『マインド・ゲームス』と同様にアダルト・コンテンポラリー・ミュージックの先駆となった。 このようにレノンは編曲のアイデアに富むプロデューサー的な才能にも非常に恵まれていた。

一方、スタジオワークとしてソロ前期、後期を通じて共通しているのはレノンのボーカルの録音である。「ジョンとヨーコのバラード」以来受け継がれたエコーを効かせた「インスタント・カーマ」「マザー」「愛の不毛」「スターティング・オーヴァー」などの作品は、レノン自身が中音域における豊かな声質の再現を意識していたことが伺える。

このようにソロ時代にもレノンの音楽性は新たな展開を示したといえるが、次節にあるようにレノンは何よりもポール・マッカートニーの楽曲をよく研究しておりマッカートニーもレノンがどのように自分の作品を評価しているかを考慮しているという発言があり、ビートルズ解散後も「レノン=マッカートニー」はなお健在していたといってもよいかもしれない。

ポール・マッカートニーとの関係

ビートルズ後期及び解散後におけるマッカートニーとの確執が、二人の関係を語る上で頻繁に取り沙汰される。確かにビートルズ解散直後しばらくは互いの楽曲中で中傷しあう(『ラム』でのマッカートニーのレノンへの皮肉は『イマジン』における『ラム』のパロディー、「ハウ・ドゥ・ユー・スリープ」におけるマッカートニー作品が軽音楽のようだという歌詞、『ウィングス・ワイルド・ライフ』における「ディア・フレンド」がレノンを指すなど)深い確執が存在したが、ビートルズのアラン・クレインのマネージメントにおける問題、アップルレコードの管理など一連の訴訟が解決に向かう中、1970年代も中頃になると、ビートルズ再結成の可能性を肯定するような発言がみられるようになり、マッカートニーが自らのバンド「ウイングス」でアメリカ・ツアーを行った際には時折レノンのもとを訪れるなど親交を取り戻すようになった。1974年にはスティーヴィー・ワンダーらとともにジャム・セッションを行い、「スタンド・バイ・ミー」や「ルシール」などロックンロールのスタンダードを一緒に演奏したテープも残されている。

またレノンは常に「マッカートニーは『兄弟』であり、彼との確執は『兄弟ゲンカ』みたいなもので他人が干渉してくる筋合いはない」というスタンスを保ち続けていた。マッカートニーを卑下する発言をするものに対しては「ポールの悪口を言ってもいいのは俺だけだ、他の奴が言うのは許さない」と発言している。レノンとは飲み友達でオノとの別居中は共同生活を送っていたハリー・ニルソンや秘書のメイ・パンにでさえ、マッカートニーの悪口を言うことは許さなかったという。またレノンは「人生のうちで2回、すばらしい選択をした。ポールとヨーコだ」、また「僕が音楽業界で達成した偉業はひとつ。『ポール・マッカートニー』を発掘したことだ」とも発言している。

ポールのほうも、1970年代末頃、共作の意思をジョンに電話したりしている(ジョンが多忙中で、ヨーコが繋がなかったので、ジョンには伝わっていない)(出典要)。

ビートルズ解散後レノンとマッカートニーが揃って公の場に姿を見せることは一度もなかったが、1980年のマッカートニーのヒット曲「カミング・アップ」が、レノンに音楽活動を再開させるきっかけになったとも伝えられる。またマッカートニーは90年代に入ってレノンの「平和を我らに」、ビートルズ時代はレノンがボーカルを担当した「ヘルプ!」「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」「カム・トゥゲザー」などをカバーすることもあり、全世界のファンの胸をうった。

ディスコグラフィ

EMIミュージック・ジャパン(旧 東芝EMI)リリース作品についてはhttp://www.emimusic.jp/international/artists/johnlennon/も参照。

オリジナル・アルバム

ベスト盤

ライブ盤および未発表音源集

映像作品

  • ジョン・レノン僕の戦争 - How I Won The War - 1967年 [映画]
  • イマジン - 1988年 [VHS & LD]
  • ギミ・サム・トゥルース - 2000年 [VHS & DVD]
  • ライヴ・イン・ニューヨーク・シティ - Live In New York City [VHS]
  • ライヴ・ピース・イン・トロント1969 -1999年 / スウィート・トロント - 2002年 / スウィート・トロント〜プラスティック・オノ・バンドfeat.エリック・クラプトン - 2007年[DVD]
  • レノン・レジェンド - 2003年 [DVD]
  • PEACE BED アメリカVSジョン・レノン - 2006年 [映画]
  • チャプター27 - Chapter 27 2007年 [映画]

主な使用楽器

image:Image:Body.JPG
ギャロトーン・チャンピオン(ジョンが最初に入手したギターで現物はジョン・レノン・ミュージアムにて展示)

アコースティック・ギター

ギブソン・J-160E(1本目)
1962年9月にジョージと一緒に購入したエレクトリック・アコースティック・ギター。ボディカラーはサンバースト。ボディシェイプはJ-45と同じだが、ボディ内部の構造からして異なる。ボディトップはハウリング防止のため、合板を使用している。そのため生音で鳴らした場合、通常のアコースティック・ギターより鳴りが抑えられている。P-90ピックアップがフィンガーボードの付け根の所に付けられており、そこから音を拾ってアンプなどへ出力する。そのためアンプに繋いだ場合、エレクトリックギターの様なサウンドになり生音とはだいぶ異なる。1963年末に消失。盗難説と破損説があり、ジョンは盗まれたと思っているが、後に語ったジョージの証言によると運搬中のトラックの荷台からケースごと落下しバラバラになったとのこと。ちなみに最近の調査で、現在ジョージの遺族が保管するジョージのJ-160Eは、元々購入時にはジョンのものであったことがシリアルナンバーから判明。まったく同じ仕様であるため、途中から互いのギターを取り違えて使っていたようである。
ギブソン・J-160E(2本目)
2本目のJ-160Eは1本目とは若干仕様が異なる。ジョンが生涯愛したギターである。1966年にはピック・アップがサウンド・ホール後方に移設される。1967年には波形のサイケデリック・ペイントが施されるが、1968年にはエピフォン・カジノらと共に塗装を剥がされ、ピック・アップの位置も復元される。ピック・ガードも形状の異なる新たなものが取り付けられた。1969年のベッドインのときには、ボディにジョンとヨーコの似顔絵イラストが描かれていた。「ジョン・レノン・ミュージアム」にそのときの状態のレプリカが展示されている。実物はアメリカ・オハイオ州クリーブランドにあるロックの殿堂に展示されている。
ギブソン・J-200
アルバム『ザ・ビートルズ』のレコーディング・セッションからメインに使われた。ジョージも使用しており、2本ある写真が確認されていないため、ジョージが所有していたものを借りたという説がある。
フラマス12弦ギター
映画『ヘルプ!4人はアイドル』の「悲しみはぶっとばせ」演奏シーンにも登場したギター。
マーティン・D-28(Martin D-28)

エレクトリック・ギター

リッケンバッカー・325(Rickenbacker 325)(1本目)
ジョンが初めて入手したリッケンバッカー。1958年製。ショートスケール。元々、購入当時はナチュラルカラー(リッケンバッカー社でのカラー・ネームは「メイプル・グロー」)で、コフマン・バイブローターが付けられていた(後にビグスビーB5・トレモロユニットに交換)。1962年後半にはブラックの塗装を施し、1964年までメインギターとして使用。その後2本目のリッケンバッカー・325に移行してから、一度も表舞台へ出ることがなかったため、エド・サリバン・ショーの収録現場で盗難にあったとの説が長い間語られていた。しかし近年になり、ジョンが保管し続けていたことが判明。1970年代初頭にブラックから、元のナチュラル塗装へ戻すリペアが施されていた(さいたまスーパーアリーナ内にあるジョン・レノン・ミュージアムにて展示)。
また、近年リッケンバッカー社からジョンが購入当時の仕様を再現した「リッケンバッカー325C58」(Cシリーズ)が発売された。当時の仕様を再現するため、日本でビートルズ使用楽器を主に扱っているギターショップ「with」でリペアを担当する大金氏に依頼し、ジョン・レノン・ミュージアムに何度か通い、その調査のメモを参考に再現された。
リッケンバッカー・325(Rickenbacker 325)(2本目)
ジョンがリッケンバッカー社にオーダーして作らせた2本目のリッケンバッカー。1964年製ブラックカラー(リッケンバッカー社でのカラー・ネームは「ジェット・グロー」)。1本目の325よりもボディは薄くなっており、台形のブリッジにトレモロアームが付いているなど、細かい点で仕様が異なる。ネックは3ピース・メープル・ネック。1964年のクリスマスショーの最中にジョンが落としてしまいネックが破損する。1965年いっぱいまでメインギターとして使用された。1967年の「サージェント・ペパーズ〜」レコーディングセッション中スタジオ内に置かれている写真が残されているものの、実際に使用されたかどうかは不明。
現在は1本目のリッケンバッカー・325とともにジョンレノン・ミュージアムに展示されている。裏から見るとネック裏の傷がはっきり見て取れる。またビートルズの1965年のイギリス公演のセットリスト(曲名は略記してある)が書かれた小さな紙が、向かって左のカッタウェイ側面にテープで貼られたままになっている。
リッケンバッカー・325(Rickenbacker 325)(3本目)
1965年、ポール・マッカートニーに贈られた4001ベースと同時に、リッケンバッカー社よりイギリス代理店のローズ・モーリス社を通じてプレゼントされたもの。当時のヨーロッパ市場での市販品で、欧州でのモデル名は1996となっている。仕様は基本的に2本目に準じるが、カラーが4001ベースやジョージ・ハリスンの360-12と同じファイア・グロー(チェリー・サンバースト)で、ボディの左側にfホールが開けられている。1965年のイギリス公演で2本目と併用された。使われなくなった1966年以降、リンゴ・スターに譲渡された。
リッケンバッカー・325-12(Rickenbacker 325-12)
ジョンがリッケンバッカー社にオーダーして作らせた325の12弦タイプ。1964年製ブラックカラー(リッケンバッカー社でのカラー・ネームは「ジェット・グロー」)。
本来、325など末尾に5がつくモデルはトレモロ・アーム付きだが、このギターが製作された時期はまだそれが徹底されておらず、このギターもアームが付いていないにもかかわらず325-12となっているが、'64年より末尾に5が付くモデルはアーム付きであることが徹底されたため320-12と改番された。
現在オノ・ヨーコが所有。
フェンダー・ストラトキャスター
ボディカラーはソニックブルー。主に『ラバー・ソウル』レコーディング・セッションで、ヴォックスAC-30に繋いで使用。映画『イマジン』など、アルバム『イマジン』制作風景を納めたフィルムにおいて、ジョージ・ハリスンが使用している、ネックを50年代製のメイプル・フィンガーボードのものに交換されたモデルのボディとアッセンブリが、それと同一品とする説がある。1980年のフォト・セッションで、当時の新品であった赤いザ・ストラトを弾いているものがある。
image:Image:Epiphone Casino SB.jpg
エピフォン・カジノ(サンバースト)
エピフォン・カジノ
1965年に、以前から同器を使用していたポール・マッカートニーの勧めでジョージ・ハリスンとともに購入。ジョージのカジノとは色合いや仕様(トレモロアームの有無など)で若干の違いがある。同年の『ラバー・ソウル』セッションから使い始め、1966年からはジョージと共にコンサートでのメインギターとしても使用。日本公演でも使用した。
元々のボディカラーは黄色味がかったサンバーストであったが、1967年の『サージェント・ペパーズ〜』レコーディングセッション中に、ボディ裏面を白くスプレーしている。ハレーションをおこし光の具合で白く見えている、という説を唱える者もいるが、ジョン自ら裏面を見せている写真をはじめ、当時の複数の写真で白くなっているのがはっきり確認できる。おそらくそれはサイケデリック・ペイントを施すための下塗りで、裏面の段階で思いとどまったものと思われる。同年の「愛こそはすべて」の衛星中継にて、ジョージがこのギターを借りて使用している。翌1968年の「ヘイ・ブルドッグ」レコーディング直後にボディのサンバースト塗装を剥がして木の地肌を露出させたナチュラル仕上げにする。この頃ビートルズのメンバーは、ギターの塗装をはがすことによる音質の変化に期待していたようで、ジョージ・ハリスンのカジノとポール・マッカートニーのリッケンバッカー4001Sも塗装をはがしナチュラル仕上げを施している。同時に、リアピックアップのヴォリューム・ノブを、標準のゴールドからブラックに差し替えた。その後1971年の『イマジン』レコーディング・セッションまで使用。その後、コレクションとして大切に保管していた。
ブリッジ・サドルは現行の仕様とは異なり、プラスティック樹脂を使用している。そのため音が若干柔らかめになっている。
現在はジョン・レノン・ミュージアムに、ブラックノブと共に展示されている。
ギブソン・レスポール・ジュニア
1971年、ニューヨークに移住してから入手。当時ジョンはボブ・マーレィをはじめとしたレゲエに心酔しており、マーレィが同モデルを使用していたため、それに倣って入手したという。ギブソンJ-160Eやエピフォン・カジノと同じくP-90ピック・アップを搭載しており、ジョンのギター・サウンドにおける趣向が窺える。フロントにギブソンES-150用のオールドタイプのピック・アップ(通称チャーリー・クリスチャンPU)を追加、PUセレクターの増設、ブリッジとテイルピースの交換を施し、より実用性を高めている。カラーは当初サンバーストだったが、チェリー・レッドにリフィニッシュされた。アルバム『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ』レコーディングや、1972年のTV番組『マイク・ダグラス・ショー』出演時に使用されたが、何と言っても1972年8月30日にNYのマジソン・スクエア・ガーデンで行われたチャリティ・コンサート『ワン・トゥ・ワン』での使用が最も印象的。
現在はジョン・レノン・ミュージアムに展示されている。

アンプ

ヴォックス・AC-30(VOX AC-30)
ビートルズデビュー前から初期まで(中期ではフェンダーなどのアンプと併用)のレコーディングにおいて最もよく使用されたアンプ。真空管を使用しているため独特な粘りのあるサウンドで、個々のギターの特徴と混じり合って音を出す。これこそ初期ビートルズサウンドの大きな要素である。ライブでも使用される事はあったが出力が低いため、ライブには向かなかった。
ヴォックス・AC-50(VOX AC-50)
ヴォックス・スーパー・ビートル(VOX SUPER BEATLE, VOX AC-100, VOX AC-200)
ライブにおいて観客から殆ど音が聞こえない状況を打開するため、出力の低いAC-30などのアンプに代わって、ヴォックス社よりビートルズのライブのために開発・提供された大型で高出力のスタックアンプ。100Wのものと200Wのものがあり真空管を使用し粘りのあるサウンド。ボリュームを最高にして使用しているようで、その分、アンプの持つサウンドより箱鳴りのサウンドの方が大きく聞こえる。1966年の日本公演の1日目と2回目公演でAC-100を使用。現在は生産停止。
フェンダー・ツインリヴァーブ
主にビートルズ中期以降に使用。中期ではヴォックス社との契約上の理由から、ライブや映像では出てこないが、レコーディングではフェンダー社製アンプも使用されていた。低域も出るので、ベース用として代用できるほど性能が高い。パンクバンドもよく使っている。

その他

ホーナー・ブルース・ハープ(M.HOHNER BLUES HARP)(10穴ハーモニカ)
ホーナー・マリンバンドと言われる事があるがレノンが所有していたのはブルース・ハープ。
(レノン50回目の誕生記念に愛用品の展示会が行われた時、なぜかマリンバンドと紹介されていたが、そこにあったのは3本の「M.HOHNER BLUES HARP」と刻印されたハープで「MARINE BAND」と刻印されたハープではなかった。同カタログ本にもブルース・ハープの写真にマリンバンドと間違いで紹介されている)

ジョン・レノンのパロディー

関連項目

外部リンク


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2008年4月8日 02:04 版 改訂履歴
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