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サンフレッチェ広島

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

サンフレッチェ広島
原語表記 サンフレッチェ広島
愛称 サンフレッチェ、サンフ、サンフレ
クラブカラー
創設年 1938年
所属リーグ 日本プロサッカーリーグ
所属ディビジョン ディビジョン2
ホームタウン 広島県広島市
ホームスタジアム 広島ビッグアーチ
収容人数 50,000
代表者 本谷祐一
監督 ミハイロ・ペトロヴィッチ
公式サイト 公式サイト

Template(ノート 解説)サッカークラブpj

株式会社サンフレッチェ広島
SANFRECCE HIROSHIMA
種類 株式会社
市場情報 非上場
本社所在地 733-0036
広島県広島市西区観音新町四丁目10番2号広島西飛行場ターミナルビル1階
電話番号 082-233-3233
設立 1992年4月24日
業種 サービス業
事業内容 プロサッカークラブの運営
代表者 取締役会長 久保允誉
代表取締役社長 本谷祐一
資本金 21億1,005万円
主要株主 別項参照
関係する人物 古田徳昌 信藤整 今西和男
特記事項:取締役会長の久保允誉はエディオン社長、デオデオ会長、暮らしのデザイン会長を兼務。
  

サンフレッチェ広島(サンフレッチェ ひろしま、Sanfrecce Hiroshima)は、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。

目次

クラブの概要

広島ビッグアーチ(メインゲート正面部分から)
広島ビッグアーチ(メインゲート正面部分から)
広島ビッグアーチ2(メインゲートを別角度から)
広島ビッグアーチ2(メインゲートを別角度から)

1991年Jリーグ加盟(オリジナル10の一つ)。ホームタウン広島県広島市。前身は東洋工業サッカー部(その後マツダサッカークラブ)。

チーム名の「サン」は日本語の「三」、「フレッチェ(複:frecce)」はイタリア語で矢を意味し、戦国大名・毛利元就の「三本の矢」の故事にちなんでいる。

チームカラーは、紫(青紫、VIOLET)。 クラブスローガンは、「WE GET DREAMS.」。

チームマスコットは、中国山地に生息するツキノワグマをモチーフとした「サンチェ君」と「フレッチェちゃん」。

チームエンブレム2005年1月10日(公式発表)に設立当初のものから現在のものに変更された(ロゴは変更なし)。

ホームスタジアムは広島ビッグアーチ。以前は広島スタジアムを使用しており、1994年まではホームスタジアム、2006年までは準ホームスタジアムとしてカップ戦(ナビスコ杯天皇杯)を開催されていた。

練習は安芸高田市吉田サッカー公園が主に使用されている。試合前や天候などの理由により、ビッグアーチやその隣の広島広域公園補助競技場なども利用している。1998年以前にはマツダ健保グラウンドを使用していた。

サテライトリーグは以前はマツダ鯛尾グラウンド(マツダSC時代の練習場)や広島広域公園第一球技場などで行われていたが、現在は吉田サッカー公園のみで開催されている。

本社所在地(事務所)は以前、広島市中区中町の広島クリスタルプラザ4階にあったが、1998年8月に現在の広島西飛行場ターミナルビル1階に移転している。

グッズ・チケット等は広島市中区大手町にあるV-point、あるいはオフィシャルネットショップe-Vpointで購入できる。

なお、同クラブは当初マツダが筆頭株主であったが、2007年第三者割当増資を行いデオデオが筆頭株主となっている。

クラブの歴史

前史(マツダ時代)

1938年に創部された前身の東洋工業は、サッカーどころ広島を代表するクラブとして、長く全国屈指の強豪チームとして活躍してきた。しかし、1970年代に入ると徐々に低迷し、1980年代に入ると2度に渡りJSL2部へ降格してしまう。1981年マツダサッカー部(マツダSC)に名称変更。1982年今西和男がサッカー部総監督に就任、のちにチームに多大な影響を与えたハンス・オフトをコーチに招聘した。

低迷の原因が地方のハンディによる有力新人獲得の不足と見た今西とオフトは、クラブ全体の育成路線を推し進め、サテライトチームのマツダSC東洋クラブを設立し、中国社会人リーグに参戦。若手に実戦経験を積ませることで戦力の底上げを図った。ここからは、後にオフト自身により日本代表に選出された森保一をはじめ、Jリーグ初期を支えた主力選手が多く生まれた。ここで確立された育成重視の方針は、現在の広島にも連綿と受け継がれている。

またこの時期に、既に動き出していたプロ化への布石として、当時ドイツ・ブンデスリーガで活躍していた風間八宏を獲得。彼のプロ意識は、クラブに大きな影響を与えた。

Jリーグ創設前夜

1990年、プロリーグ設立に向け着々と準備が進む中で、地域バランスの上からマツダSCも参加を強く要請された。当初、マツダは財政的理由から降りようとしたものの、野村尊敬広島県サッカー協会会長をはじめとする多くの関係者、市民の運動により、1991年1月23日、正式にプロリーグ参加を表明。同年2月、プロリーグ参加10団体(オリジナル10)発表。関西以西、中国地方では唯一の参加となった。(田辺一球コラム参照)

1992年4月24日、広島県・広島市・マツダ・デオデオ中国電力広島銀行等59団体の出資により「サンフレッチェ広島」を設立。上記のようにマツダだけでは財政的に支えきれそうになかったため、Jリーグ参加条件であった「チーム名に企業名を入れない」意味を企業に説明して、出資団体を募った。その当時、オリジナル10のほとんどが親会社100%出資でチームを設立していたため、この官民の出資による設立はJリーグの方向性を示したと言える。

1992〜1994年(バクスター時代)

1992年に、スチュワート・バクスターが監督に就任。イワン・ハシェックパベル・チェルニー盧廷潤ら能力重視で独自路線の外国人補強であった。フジタから高木琢也富士通から小島光顕などJリーグに参加しないチームから日本人を数名補強した。

1992年のJリーグヤマザキナビスコカップでは、10チーム中9位と不甲斐ない成績を残してしまったが、徐々に戦術が浸透すると高木・前川など日本代表クラスや、チェルニー・盧・ハシェックらの外国人勢が活き活きと活躍しだし、1994年には見事サントリーシリーズで初優勝を果たす

この時代のサッカーは、Jリーグで初めてダブルボランチ(風間・森保)の4-4-2を採用し、またDFラインは片野坂知宏佐藤康之柳本啓成森山佳郎と、どれも180cm以下の身長しかなかったが、DFラインを浅くとり裏のスペースはスピード豊かな佐藤・柳本で対応。これによって中盤がコンパクトになりその結果、高木のポストプレーも活きるようになった。この攻守に整った組織的サッカーとフェアプレー精神で広島サポーターのみならず、多くのJリーグサポーターを魅了した。

しかし同年ニコスシリーズになると、組織的でオートメーション化したパスサッカーが、逆に相手にパス展開を読まれてしまうようになり、トーレをCBに入れる3-5-2も試すなど試行錯誤したが、結局得点力が低下していった。

その結果、Jリーグチャンピオンシップではヴェルディ川崎に敗戦、惜しくも年間優勝には届かなった。

1995〜1996年(ヤンセン時代)

チャンピオンシップでの敗戦でシステマティックなサッカーに限界を感じ、更なる個の成長を目指して1995年ハンス・オフトの推薦でオランダ人のビム・ヤンセン監督が就任する。 ジョン・ファンルーンピーター・ハウストラサントスらを補強し、バクスター時代のシステマティックなサッカーとはがらりと変わり、ヤンセンは選手個々の判断力を重視し、マンツーマンディフェンスの3-4-3を導入し、オランダ風のトータルフットボールを目指した。

しかしあまりにも変わりすぎたため、ほとんどの選手たちはこれについていけず、柳本や風間などは公然と監督批判、さらには主力の高木・森保は怪我から満足に活躍できない状況で、チームは瓦解状態に陥った。その後、3-6-1にシステム修正するも、成績は10位以下まで落ち込んでしまった。 1995年シーズン終了後、システムについていけないベテラン選手を次々と放出。風間にいたっては「選手として何一つ得る物が無い1年だった」とはき捨て退団。特にバクスター時代のヒーローであったハシェック・片野坂・森山などが退団したことで、サポーターの怒りを買い、成績が下降するのと比例して観客動員低下につながって行った。

ヤンセンは上村健一をレギュラー起用し、それまで出場機会に恵まれなかった桑原裕義を初めとする若手を積極的に起用した。特に路木龍次はU-23アトランタ五輪代表を経て、日本代表にまで上りつめた。また後にエースとなる久保竜彦を高卒2年目となる1996年から積極的に起用している。

リーグでは結局不調であったが、天皇杯で面目躍如、2年連続決勝進出を果たした。

1997〜2000年(トムソン時代)

Jリーグバブルの崩壊によって経営的な陰りを見せ始め、徐々に選手育成型クラブへ向かおうとしていた1997年バルセロナ五輪で名を上げ、若手育成に定評があったスコットランドエディ・トムソンが就任する。同年末、経営難はピークに達し、クラブ側は選手に減俸提示し、飲まないのであれば移籍放出する方向になってしまった。そして1998年には高木をヴェルディ川崎へ、路木を横浜マリノス、森保を京都パープルサンガレンタル移籍)、翌1999年には柳本をガンバ大阪へと主力選手を次々と放出。クラブは最初の試練を迎えた。(広島経済大学・学ぶ会報告書p.76および中国新聞 マツダ特集参照)

アビスパ福岡から藤本主税柏レイソルから沢田謙太郎、他チームで構想外となっていた伊藤哲也宮澤浩吉田康弘山口敏弘らを安く獲得しながらも、久保竜彦下田崇服部公太高橋泰らの若手を起用していった。 また、トムソン自らスカウティングしたイアン・クルーク、自身が持つオーストラリアへの強いパイプを生かしてグラハム・アーノルドアウレリオ・ヴィドマートニー・ポポヴィッチハイデン・フォックススティーブ・コリカと優秀な外国人選手も次々と補強した。

医療体制が整っていなかったため怪我人が出てもなかなか復帰せず、また財政難からまともに戦力が整わなかったため、トムソン就任当初は5-3-2や時には前線に1人だけを残した5-4-1と極端な守備的サッカーを展開、当時清水エスパルス監督であったオズワルド・アルディレスから「サッカーは得点しなければ勝てないことを、広島に教えるべきだ。あれでは選手があわれだ」と言われるほどであった。

就任3年目の1999年に至ってトムソンのサッカーも熟成。上村、ポポヴィッチ、フォックスによる当時Jリーグ最強とも言われた3バック、代表にまで昇りつめた藤本、そして何よりも新たなるエース久保の覚醒によって、堅守速攻のカウンターサッカーを武器に次々と強豪チームを撃破。リーグ戦を1stステージ6位、2ndステージ8位と上々の成績を残し、またその冬にはユース所属の高校生Jリーガーである森崎和幸の活躍もあり、天皇杯決勝まで進んだ。 翌2000年、更なる上位進出を目指したが、リアクションサッカーからの脱却ができず、肝心なところで勝ち星を失う試合が続いた。しかし森崎和幸が新人王を受賞するなど少なからず明るい話題はあった。

2001年(ヴァレリー時代)

4年にわたる長期政権を終えトムソンが勇退した2001年、クラブはより攻撃的なサッカーを目指すために、ロシアヴァレリー・ニポムニシを新監督に招聘した。

センターフォワードタイプの選手を2人以上並べる3トップを採用し、超攻撃戦術への大転換を図った。久保・大木勉・藤本・コリカが絡む前線は抜群の破壊力を誇ったが、守備練習にほとんど時間を割かなかったため、1stステージではほとんどカウンターアタックの餌食となり成績低迷、J2降格の危機に陥った。

残留に向けオレグ・パシニンセルゲイ・スカチェンコを補強、相手に合わせて柔軟にシステムを変化させ、攻撃的なヴァレリー戦術を継続させながらもJ1残留を目指した。すると日本代表にも選ばれた久保と藤本、日本屈指の両アウトサイドとなる服部・駒野友一、森崎和幸・浩司兄弟、トゥーリオらの若手の活躍もあり、J1残留に成功。しかもその年の2ndステージは3位と、優勝した94年以来の好成績を残し、「来年こそ優勝を」という機運は高まった。

ところがこの年のオフ、ヴァレリーは夫人の病気(後に、フロントとのチーム方針を巡る意見の相違から、好条件を提示されたCリーグのクラブの監督に就任するための狂言と判明)によってわずか1年で辞任する。この際、ヴァレリーが新監督に推薦したロシア人ガジ・ガジエフを、クラブがそのまま鵜呑みにして就任させてしまったことが、結果的に翌年の崩壊を招くこととなった。

2002年(ガジエフ〜木村〜小野時代)

2002年、新監督のガジエフは、前年に驚異的な活躍をしたコリカやオレグを構想外にし、更にキャンプでも選手たちの心を全く掴むことが出来ずチームはバラバラのまま、また更にキャプテンの上村が開幕直前に大怪我をしてしまい、計算できるCBがまったくいない最悪の状況でシーズンに突入した。 チームは戦術が全く噛み合わないまま連戦連敗を重ね、ガジエフのテストに合格したミロ、上村の開幕直前の怪我で急遽獲得したビロングの新外国人も軒並み期待はずれに終わった。結局ガジエフは第8節終了後に健康上の理由により辞任。広島にとってはクラブ史上初のシーズン途中での監督交代劇だった。

同年7月、コーチを務めていた木村孝洋が昇格する形で監督に就任、これがクラブ史上初の日本人監督となった。しかし低迷するチームの復調を託すことはあまりにも荷が重く、消極的な采配に終始、毎試合システムや選手を入れ替えたため、さらにチームは混迷した。また頼みの綱の久保と藤本も怪我による低調なパフォーマンスに終始し、鳴尾直軌井手口純をレンタルで獲得するも、これも期待はずれに終わってしまう。同年9月には長年日本代表でコーチを務めていた小野剛をコーチに招聘すると、ようやく終盤になりチームとして形になるが、結局最終節のコンサドーレ札幌戦に敗れたことで、オリジナル10としては浦和レッドダイヤモンズに続いて2クラブ目、ステージ優勝経験のあるクラブとしては史上初のJ2降格が決まった。

同年12月、責任を取って木村は辞任。後任にはヘッドコーチの小野が監督に昇格し、会見の場で「1年目にはJ1復帰、2年目にはJ1残留、3年目にはJ1で優勝争い」と言う『3ヵ年計画』を発表した。混乱から立ち直ったチームは本来の実力を発揮し、天皇杯を3連勝。準決勝で京都パープルサンガに敗れたものの、その戦いぶりは来期への明るい展望を抱かせるのに充分な内容だった。

2003〜2005年(小野時代)

2003年小野剛監督のもと、クラブは1年でのJ1復帰に向けて尽力する。予想された主力の流出は久保と藤本の二人にとどめ、一方でセザール・サンパイオ(前柏レイソル)、リカルド(前ベガルタ仙台)などを獲得し、J2で戦うための戦力を充実させた。

こうして迎えたシーズンは、1stレグ11試合を無敗(10勝1分)、10連勝を含む11戦負けなしのJ2記録を樹立(無敗記録はその後更新された)、序盤は独走した。だが次第にシーズン44試合の長丁場と相手チームの徹底的に守る戦術に苦戦、一時は3位まで後退するが終盤に巻き返し、残り1試合を残して2位以内が確定し、1年でJ1返り咲きを決める。ちなみに、J2優勝・アルビレックス新潟に2勝1敗1分け、3位・川崎フロンターレに2敗2分け、4位のアビスパ福岡に前半戦2勝・後半戦2敗したことが、新潟・川崎との厳しい昇格争いとなる原因となった(最終的には、勝ち点差が1位から3位までわずか3だった)。

J1復帰後、上村健一・桑原裕義・高橋泰などのチームを支えてきた選手を次々に放出する一方で、DF小村徳男吉田恵などベテラン、新外国人FWチアゴを補強。堅守を武器に健闘したが、頼みの助っ人のチアゴは怪我で離脱するなど、得点力の低さから勝ちきれない試合が重なり、結果13引き分けと、年間最多引き分け記録を作ってしまった。また、高校生年代の選手である前田俊介高柳一誠森脇良太の他に高萩洋次郎などがトップで起用され、将来を見据えた。

この反省から2005年、クラブは更に積極的な補強に動く。前年途中に獲得した盛田剛平ベットに加え、佐藤寿人池田昇平茂原岳人などの年代別代表時代の小野の教え子たち、ジニーニョガウボンといった有力な外国人選手を次々と獲得。これらの新戦力と、新キャプテンに就任した森崎和、ユースから入団した前田を始めとする生え抜きの選手たちが融合し、チームは快進撃を続け、一時は2位にまで浮上した。特に、下田・ジニーニョ・小村のベテラン勢の守備陣は鉄壁で、前半戦を終えた時点でどの試合も0分~45分の間は無失点という驚くべき記録を残した。小野が掲げた3年でJ1優勝も現実味を帯びる展開まで持ち込んだが、下田の怪我による長期離脱もあいまって終盤に息切れ、下位に甘んじていた浦和レッズセレッソ大阪が猛追してきたこともあり、最終的には7位でシーズンを終えた。

また駒野が東アジア選手権から代表に定着、そして佐藤寿もシーズン終了後に日本代表に選出されるなど、充実のシーズンとなった。特に佐藤寿の活躍には目を見張るものがあり、久保の移籍以降不在だったエースストライカーの座を勝ち取るほどの活躍を見せJ1日本人得点王にも輝いている。

2006年(小野〜望月〜ペトロヴィッチ時代)

2006年シーズンは、昨年足りなかった部分を補強する目的で、FWウェズレイ(元名古屋グランパスエイト)やMF戸田和幸、FW上野優作らのベテランを期限付き移籍で獲得。ダークホース的な存在に挙げる評論家も多かった。これにより更なる上位進出を狙ったが、より高レベルのサッカーを目指して導入した新システムが全く機能せず、開幕から自慢であったはずの守備が崩壊し、実に開幕から10戦未勝利(クラブワースト記録)と低迷。第8節終了後、小野は低迷の責任を取って辞任した。

後任には、GKコーチの望月一頼が、ワールドカップによる中断期間までの暫定で就任した。 望月は、前回降格した2002年の反省や、更に中断までのリーグ4試合の間に出来るだけ早くチームを立て直さねばならないという判断から、5バックによる超守備的な戦術を選択し、攻撃は佐藤寿の決定力に賭けた。この戦術をリーグ戦だけではなく、グループリーグ敗退が決定していたナビスコカップでも行ったため、一部のサポーターのみならず一部選手から批判を声が上がった。しかしこのサッカーを終始貫き、残留争いに優位に立てることとなるリーグ戦4試合で勝ち点7という結果を残し、新監督のオーストリアミハイロ・ペトロヴィッチへとバトンを渡した。

ペトロヴィッチは世代別代表にも名を連ねる青山敏弘柏木陽介など若手を積極的に起用。さらに本来はボランチを本職とする戸田和幸・森崎和幸の2人をセンターバックで起用するようになる。そして、この時期からウェズレイが次第にチームにフィットしたこともあり、攻撃の中心となる活躍を見せる。結果的に監督交代が功を奏した形で、31節で来季のJ1残留を決定し、混戦だったシーズンを最終的には10位で終了。2トップの佐藤寿が日本人得点王の18点、ウェズレイが16得点を挙げるなどチーム総得点50のうち7割を二人でたたき出した。長年、チームの課題だったFWの得点力不足が改善された成果とは言えるが、逆にFW以外の選手による得点が少なかったことは今後の課題ともいえる。また控え選手の層が薄かったこともあって、中盤から後半戦にかけてはメンバーが固定されていた。それ自体は悪く無いのだが、怪我や代表戦などでチームを離れざるを得ない選手が出た場合に選手層が薄くなってしまう事もあった。

2006年のドイツW杯本大会には、佐藤寿が落選したものの、駒野が日本代表メンバーに選出された。サンフレッチェからW杯本大会の日本代表メンバーが選出されたのは駒野が初めてである。その後も、この2人はオシムジャパンに召集された。

2007年~(ペトロヴィッチ時代)

他クラブが移籍市場を賑わわせるなか、補強はユース所属の平繁龍一遊佐克美2人のトップ昇格と愛媛FCにレンタル移籍していた高萩洋次郎田村祐基が復帰するのみの補強に終わり、昨年の若手育成路線が完全に継続される形となった。そんな中でも昨年はレンタル移籍だった戸田和幸・上野優作がそれぞれの所属元から完全移籍となり、ウェズレイも契約を1年延長した。メンバーに大きな変更は無いものの最低限のメンバーを整えたと言える。ただし、経営のほうは、監督交代などが響き、2年連続で赤字となった。中国新聞社記事1中国新聞社記事2 ただ戦力は確実に成長しており、事実、現行ルールで決勝トーナメントへ進んだ事のなかったナビスコカップで初の決勝トーナメント進出を果たした。育成面では上々の成果をもたらし、年代別代表選手をのべ7人抱えるまでとなったが、ペトロヴィッチ監督の標榜するサッカーは共通理解をベースとした連携重視の全員サッカーであるために、主力全員で練習することが少なくなっているためか、リーグ戦で結果が出せていないという弊害も生まれつつある。 さらに、序盤は恐れられていたウェズレイ・佐藤寿人の2トップも後半戦から他チームに攻略され始め、中断明けから得点力が低下したことや、今回の補強の少なさから、計算できるDFがあまりおらず、他ポジションからコンバートした選手(元々盛田はFW、森崎和幸はMFの選手である)を使用したため、J1ワーストの71失点と守備も崩壊。途中、千葉からストヤノフの加入や、若手の槙野の起用でこの事は解消されたものの、得点力の低下は止められず、下位に低迷してしまう。結局2007年9月1日に挙げた横浜FCからの勝利以降10戦勝ちがなくクラブ史上初めてJ2との入れ替え戦に出場することが決定した。入れ替え戦では京都サンガF.C.と対戦したが、第1戦は1-2で敗戦、第2戦はスコアレスドローに終わった。この結果、2戦合計1-2で敗れJ2降格が決定した。なお、オリジナル10としては最多、タイトル獲得経験のあるクラブとしては京都の3度に続く2度目の降格となった。 降格後、FWウェズレイは天皇杯を待たずにブラジルに帰国し、そのまま退団となった。

その年の天皇杯では、これまでの不調が嘘のような快進撃を見せ2000年以来の8年ぶりの決勝へ進出したものの、鹿島アントラーズとの決勝戦において0-2で敗れ、タイトル獲得とはならなかった。しかし、その2ヶ月後に行われたゼロックス・スーパーカップで再びアントラーズと対戦し、2点ビハインドから同点に追い付く粘り強さを見せ、PK戦の末に勝利を収めて見事リベンジを果たした。これにより、Jリーグ発足以降としては1994年のサントリーシリーズ優勝以来チーム2度目の「日本一」の称号を手にするとともに大会初のJ2クラブによる優勝を成し遂げた。

戦績・歴代監督

年度 所属 順位 勝ち点 得点 失点 ナビスコ
カップ成績
天皇杯成績 監督 総監督
/GM
92 - - - - - - - - 予選リーグ
敗退
2回戦敗退 image:Image:Flag of England.svgスチュワート・バクスター 今西和男
93 J S:6
N:5
- S:9
N:9
S:9
N:9
- S:23
N:31
S:24
N:25
予選リーグ
敗退
ベスト4
94 J S:優勝
N:4
- S:17
N:12
S:5
N:10
- S:44
N:27
S:26
N:31
1回戦敗退 ベスト8
95 J S:10
N:12
S:39
N:28
S:13
N:9
S:13
N:17
- S:39
N:28
S:33
N:43
開催なし 準優勝 image:Image:Flag of the Netherlands.svgビム・ヤンセン
96 J 14 30 10 20 - 36 60 予選リーグ
敗退
準優勝
97 J 1st:10
2nd:13
1st:21
2nd:15
1st:8
2nd:5
1st:8
2nd:11
- 1st:22
2nd:21
1st:23
2nd:27
予選リーグ
敗退
4回戦敗退 image:Image:Flag of Scotland.svgエディ・トムソン
98 J 1st:13
2nd:9
1st:19
2nd:24
1st:7
2nd:9
1st:10
2nd:8
- 1st:22
2nd:23
1st:33
2nd:19
予選リーグ
敗退
ベスト8
99 J1 1st:6
2nd:8
1st:27
2nd:21
1st:9
2nd:7
1st:6
2nd:7
1st:0
2nd:1
1st:30
2nd:24
1st:18
2nd:25
2回戦敗退 準優勝
00 J1 1st:10
2nd:11
1st:19
2nd:18
1st:7
2nd:6
1st:7
2nd:8
1st:1
2nd:1
1st:19
2nd:23
1st:15
2nd:25
2回戦敗退 4回戦敗退
01 J1 1st:13
2nd:3
1st:13
2nd:24
1st:5
2nd:8
1st:10
2nd:7
1st:0
2nd:0
1st:25
2nd:36
1st:33
2nd:27
3回戦敗退 4回戦敗退 image:Image:Flag of Russia.svgヴァレリー・ニポムニシ
※リーグ・ナビスコカップ
image:Image:Flag of Japan.svg木村孝洋(代行)
※天皇杯2試合のみ
02 J1 1st:15
2nd:14
1st:10
2nd:16
1st:3
2nd:5
1st:11
2nd:8
1st:1
2nd:2
1st:14
2nd:18
1st:26
2nd:21
予選リーグ
敗退
ベスト4 image:Image:Flag of Russia.svgガジ・ガジエフ
※第1節~第8節
image:Image:Flag of Japan.svg木村孝洋
※第9節~
image:Image:Flag of Japan.svg小野剛
※天皇杯4試合のみ
03 J2 2 86 25 8 11 65 35 出場権なし 4回戦敗退 image:Image:Flag of Japan.svg小野剛 高田豊治
織田秀和
04 J1 1st:13
2nd:11
1st:15
2nd:16
1st:3
2nd:3
1st:6
2nd:5
1st:6
2nd:7
1st:15
2nd:21
1st:19
2nd:23
予選リーグ
敗退
4回戦敗退
05 J1 7 50 13 10 11 50 42 予選リーグ
敗退
5回戦敗退
06 J1 10 45 13 15 6 50 56 予選リーグ
敗退
5回戦敗退 image:Image:Flag of Japan.svg小野剛
※~第8節
image:Image:Flag of Japan.svg望月一頼
※第9節~第12節
image:Image:Flag of Austria.svgミハイロ・ペトロヴィッチ
※第13節~
織田秀和
07 J1 16 32 8 18 8 44 71 準々決勝
敗退
準優勝 image:Image:Flag of Austria.svgミハイロ・ペトロヴィッチ
  • 勝ち点制の導入は95年
  • 96年、05年以降のJ1、並びにJ2は1シーズン制
  • 引き分け制の導入は99年

獲得タイトル・記録

クラブ記録

なおオリジナル10の中で唯一、日本国内3大タイトル(Jリーグ年間、Jリーグカップ、天皇杯)を獲得していない。

  • その他の記録

個人記録

Jリーグ記録

ナビスコカップ記録

  • MVP
  • ニューヒーロー賞


  • ハットトリック
    • イワン・ハシェック(3点) 1994年5月18日Jサントリー第17節対V川崎(等々力陸上競技場)
    • イワン・ハシェック(3点) 1995年4月12日Jサントリー第8節対名古屋(広島スタジアム)
    • ジョン・ファンルーン(3点) 1995年7月1日Jサントリー第21節対磐田(広島ビッグアーチ)
    • 高木琢也(3点) 1996年9月21日J第20節対市原(鳥取バードスタジアム)
    • ハイデン・フォックス(3点) 1999年12月12日天皇杯3回戦対本田技研(広島スタジアム)
    • 藤本主税(3点) 1999年12月26日天皇杯準決勝対V川崎(長居スタジアム)
    • 高橋泰(3点) 2001年5月3日J1・1st第7節対FC東京(広島ビッグアーチ)
    • 久保竜彦(3点) 2001年6月13日ナビスコカップ対FC東京(広島スタジアム)
    • 高橋泰(4点) 2003年4月19日J2第7節対横浜FC(広島ビッグアーチ)
    • 佐藤寿人(3点) 2005年9月18日J1第24節対浦和(広島ビッグアーチ)
    • 佐藤寿人(3点) 2005年11月27日J1第33節対神戸(神戸ウイングスタジアム)
    • 佐藤寿人(3点) 2006年9月30日J1第25節対川崎F(等々力陸上競技場)
    • ウェズレイ(3点) 2007年5月19日J1第12節対千葉(フクダ電子アリーナ)
  • 通算試合出場
    • 小村徳男(350試合) 2005年11月12日J1第30節対大分(広島ビッグアーチ)
    • 小村徳男(300試合) 2004年4月10日J1・1st第4節対大分(大分スタジアム)
    • 下田崇(250試合) 2006年10月15日J1第27節対FC東京(広島ビッグアーチ)
    • 服部公太(250試合) 2006年10月28日J1第29節対横浜FM(広島ビッグアーチ)
  • リーグ通算記念ゴール
    • 高木琢也(3,500ゴール目) 1997年5月3日J・1st第6節対京都(広島ビッグアーチ)
    • 久保竜彦(7,000ゴール目) 2001年5月12日J1・1st第9節対C大阪(広島スタジアム)
    • ウェズレイ(12,000ゴール目) 2007年6月23日J1第17節対神戸(ホームズスタジアム神戸)
  • その他
    • 久保竜彦 AFC月間最優秀ゴール賞(8月) 2000年8月19日J1・2nd第10節G大阪(広島ビッグアーチ)
    • 森崎和幸・浩司 兄弟アベックゴール 2004年5月5日J1・1st第8節対C大阪(長居スタジアム、48分和幸、89分浩司)
    • 佐藤寿人 Jリーグ最速得点(開始8秒) 2006年4月22日J1第9節対C大阪(広島ビッグアーチ)
    • ウェズレイ J1通算100ゴール 2007年3月31日J1第4節対横浜FM(広島ビッグアーチ)
    • 服部公太 J1リーグ戦連続試合フルタイム出場126試合
      • 2004年3月13日J1・1st第1節対清水(広島ビッグアーチ)~2007年10月6日J1第28節対磐田(広島ビッグアーチ)

対戦成績

相性

  • 清水エスパルスのホームスタジアムである日本平スタジアムを非常に苦手にしており、1995年の勝利を最後に、2006年までリーグ戦では1分9敗と11年間に渡りこのスタジアムで勝利を奪えていない。リーグ戦の通算成績でも2勝10敗1分と大きく負け越しており、まさに鬼門のスタジアムである。
  • 一方で、鹿島アントラーズのホームであるカシマサッカースタジアムでの相性がよく、1997年から2006年まで負け無しだった。通算成績でも鹿島を除くJ1所属経験のあるチームの中では唯一勝ち越しており、また、鹿島がこのスタジアムで初めて負けたときの相手が広島である。

その他、詳細なデータは外部サイト(サンフレッチェ広島記録集)参照。

スタジアム別

リーグ戦のみ。Jリーグ公式サイト参照。

リーグ戦ホームゲーム観客動員数

現状

  • 現在の観客動員は1990年代後期と比べれば徐々にではあるが増えている。しかしながら数年毎に起こるネガティブなチーム成績のせいもあって、観客動員は芳しいとは言えない状況である。
  • 最多平均動員は17,191人(1994年)、最小平均動員は6,533人(1997年)。最多1試合動員は42,505人(1994年9月3日ヴェルディ川崎戦)、最小1試合動員は3,471人(J2、2003年4月9日水戸ホーリーホック戦)・3,812人(J1、1999年4月10日ガンバ大阪戦)。
  • 対戦カードにより動員増減する傾向があり、ここ数年は水曜日開催試合に最小動員が出る傾向にある。
  • 広島ビッグアーチおよび広島スタジアムはほとんどの観客席に屋根がないため、天候が崩れると観客数に減少傾向がでる。2006年は動員が多く見込めるゴールデンウィークとリーグ終盤に雨が続き、観客動員に影響した。
  • Jリーグ開始時から最小動員が1万人を切っており、さらに90年代後半のJリーグバブル崩壊と共に急激に動員数が減っていることから、当初クラブ自体が営業努力を疎かにしていたことが分かる。
  • 95年→97年の急激な落ち込みはJリーグバブル崩壊・クラブの営業努力もさることながら、94年の優勝メンバーである主力数人を放出したことやリーグ成績の低迷から。
  • 観客動員に関してさらに問題なのが、広島市民球場での広島東洋カープの試合と広島ビッグアーチでのサンフレッチェ広島の試合が、同じ日の同じ時間に開催される、双方にとってメリットのない状況も要因のひとつである。

データ

※注リーグ戦のみ、BA:広島ビッグアーチ、S:広島スタジアム

年度 カテ
ゴリ
1試合
平均
試合数・
年間入場者
最多動員 最少動員
動員数 試合日 対戦 会場 動員数 試合日 天気 対戦 会場
1993年 J 16,644 18 299,586 36,863 5月22日(土) V川崎 BA 9,672 12月8日(水) 名古屋 S
1994年 J 17,191 22 378,195 42,505 9月3日(土) V川崎 BA 8,523 11月16日(水) 磐田 S
1995年 J 11,689 26 303,903 20,265 3月29日(水) V川崎 BA 7,012 11月11日(土) 名古屋 BA
1996年 J 8,469 15 127,040 18,863 3月20日(水) 鹿島 BA 4,491 11月6日(水) 福岡 BA
1997年 J 6,533 16 104,534 10,504 8月20日(水) V川崎 BA 4,156 4月16日(水) BA
1998年 J 8,339 17 141,769 17,020 8月8日(土) 鹿島 BA 4,132 5月2日(土) 市原 S
1999年 J1 9,377 15 140,650 18,263 9月15日(祝) 横浜FM BA 3,812 4月10日(土) 曇/雨 G大阪 S
2000年 J1 8,865 15 132,978 20,876 11月23日(祝) 磐田 BA 4,175 4月5日(水) BA
2001年 J1 9,916 15 148,741 19,423 11月24日(土) 鹿島 BA 5,161 4月14日(土) 福岡 BA
2002年 J1 10,941 15 164,111 18,404 11月23日(土) BA 6,481 3月16日(土) 京都 BA
2003年 J2 9,000 22 198,004 26,158 9月23日(祝) 新潟 BA 3,471 4月9日(水) 水戸 S
2004年 J1 14,800 15 222,005 29,332 5月2日(日) 浦和 BA 5,251 4月14日(水) 名古屋 BA
2005年 J1 12,527 17 212,960 26,083 9月18日(日) 浦和 BA 6,230 7月13日(水) 磐田 BA
2006年 J1 11,180 17 190,066 17,564 3月5日(日) 鹿島 BA 5,545 7月26日(水) 曇/雨 甲府 BA
2007年 J1 11,423 17 194,199 22,675 9月15日(土) 浦和 BA 6,037 6月20日(水) 川崎 BA

エピソード・アラカルト

チーム名

チーム名は公募したものだが、当初「広島パープル」で決定しかけたという。川淵三郎の著書『虹を掴む』によると、川淵と古田徳昌広島球団社長が一緒に飲んだ際に、社長から示された「広島パープル」の名に難色を示し、ボツになったらしい。結果としてチーム名は公募され、最も多かった「三本の矢」の故事にちなんだ「スリーアローズ」をさらにもじり、「サンフレッチェ」の名前が誕生した。

ただ、広島の本来のチームカラーは、紫は紫でもパープル(赤紫)ではなくバイオレット(青紫)である。また、広島は当初マツダSC時代のユニフォームカラーである青をクラブカラーとして申請していた(青を希望したクラブが多かったため、バランスをとる形で紫になった)こと、J開幕時には既にJFLに将来のJリーグ入りを目指す京都パープルサンガが存在しており、重複する名前をつけようとしたとは考えづらいことなどから、この話は100%虚偽ではないにせよ、ある程度協会関係者による創作が混じっている可能性もある。

吉田町(安芸高田市)

サンフレッチェ広島は、広島県広島市をホームタウンとして誕生した。このチーム名は上記のとおり毛利元就の故事「三本の矢」にちなんで命名されたもので、このことから元就ゆかりの地である高田郡吉田町(現安芸高田市)と広島との交流が始まった。

そのなかで1993年9月、吉田町がサッカー公園の整備を行い、広島のトップチームの練習拠点とユースチーム育成の拠点を吉田町内に置くことが決められた。同年よりユースチームは本拠地を吉田町内に置き、町内の運動公園を練習拠点として活動を開始した。1994年にはユースチームの寮である「三矢寮」が完成、そして1998年11月に「吉田サッカー公園」が完成し、1999年2月からはトップチームの練習を吉田サッカー公園にて開始した。さらに2005年5月には吉田サッカー公園の隣に「吉田温水プール」も完成し、日本でも有数のスポーツ施設となった。

毎年シーズン前には、毛利元就にゆかりの深い「清神社」にて必勝祈願に参拝するなど、現在の吉田町は広島のマザータウンとなっている。

チェアマン杯破損事件

1994年6月11日磐田スタジアムで行われたジュビロ磐田戦で、広島は2-1で勝利し、サントリーシリーズ優勝を決めた。ところがこの際、授与された高級クリスタル製のチェアマン杯(HOYAクリスタル特製)をサポーターに見せるために、チームトレーナーが踏み台に上がろうとしたとき、興奮しすぎたため誤って転倒して手から落とし、チェアマン杯は粉々に破損。この珍事は翌日のスポーツ新聞の1面を飾った。クラブはその場でJリーグ側に陳謝、その後クラブには新しいチェアマン杯が送られた。この事件以降、チェアマン杯は金属製となった。

ちなみに当時TVでは森山佳郎が持ってサポーターの方へ向かっていた映像が放送されたため、多くのファンは「割ったのは森山」と考え、森山本人も会う人会う人から疑われて否定に必死だったという。

ユニフォーム忘れ事件

1995年4月1日熊本市水前寺陸上競技場横浜フリューゲルス戦が行われた。この試合は当時九州にJリーグチームがなく、熊本県ホームタウンとほぼ同等の権限を持った特別活動地域の1つとしていた横浜Fのホームゲームなので、広島はアウェーゲームで使う白の2ndユニフォームを持参していた。ところが横浜Fの1stユニフォームは白。競技場に着いて初めてこのことに気付いた広島は球団事務所に紫の1stユニフォームを熊本まで届けるように頼んだが、当然ながら間に合うはずもない。そこで広島は横浜Fの了解を得て、競技場に来ていたサポーターからレプリカユニフォームを借り、それにテープで背番号を貼って試合に臨んだ。借りたユニフォームは当然サポーターのものなので、当時胸スポンサーだったマツダや背中スポンサーだった住建産業のロゴが描かれていないものもあった。ちなみにパンツとストッキングは2ndユニフォームを使用したので、上から紫・紫・白という組み合わせだった。

試合は延長前半12分にイワン・ハシェックVゴールで広島が勝ったものの、後日Jリーグから制裁金が課せられた。

ちなみにユニフォームを貸したサポーターには、この試合でベンチ入りした監督・選手全員のサイン入り色紙がプレゼントされた。

西日本Jリーグチームとの関係

発足当初、兵庫以西で唯一のJリーグクラブだったことから、広島は後に参入した西日本のクラブに積極的にノウハウ伝達や選手移籍などの支援を行ってきており、アビスパ福岡ヴィッセル神戸はスタッフに広島出身者を抱えていた。

大分トリニータは、創設時に広島初代総監督の今西和男がアドバイザーとして参加したこともあり、スタッフの派遣・若手選手のレンタル移籍・戦力外になった選手の斡旋などを精力的に行っていた。その後、大分がクラブとして成熟し、同じ舞台で戦うようになったことでこの協力関係は途絶えた。

愛媛FCも大分と同様に、創設時に今西がアドバイザーとして参加していたため協力関係にあり、創部初期から選手供給を行っている。また、2000年ごろまで愛媛の下部組織は広島の提携スクール「サンフレッチェ愛媛サッカースクール」として活動しており、若年層指導者の交流や情報提供などを行っていた。

西日本ではないが、2008年にJリーグ参入したFC岐阜にも選手供給を行うようになってきている。これは岐阜ゼネラルマネージャーに今西が就任したため。

水没事件

2004年9月に上陸した台風18号は各地に多大な被害をうみ、広島でも厳島神社をはじめ多くの被害が出た。広島西飛行場ターミナルビル1階にある広島の球団事務所も床上浸水し、通信回線、倉庫にしまってあったグッズなどに被害が出て、一時事務所が機能しなくなった。現在はその教訓を生かし対策がとられている。

ちなみに、水が引いた後倉庫を掃除した際に、1994年Jリーグ優勝グッズが出てきて、それをオフィシャルネットショップにてオークションを行った。

広島の呪い

降格制度ができた1999年以降、広島に初勝利を献上したクラブはその年か翌年に不幸(降格や経営の危機)が起きる傾向があることから、一部サポーターの間で「広島の呪い」「初勝利献上のジンクス」などと呼ばれ、本気半分冗談半分で恐れられている。

J2クラブ初の「日本一」達成

2008年3月1日国立霞ヶ丘陸上競技場で行われたゼロックス・スーパーカップにおいて、この年からJ2へ降格する広島が、前年のJリーグ年間王者ならびに天皇杯覇者であった鹿島アントラーズに勝利し、降格制度ができた1999年以降初めてJ2のクラブが「日本一」の称号を手にする偉業を達成した。

所属するサッカー漫画の登場人物

選手

トップチーム

サンフレッチェ広島の選手一覧を参照。

下部組織

サンフレッチェ広島の下部組織を参照。

ユニフォーム

ユニフォームの色
カラー シャツ パンツ ストッキング
FP(1st) 紫紺 紫紺(場合によって白)
FP(2nd) 白×グレー グレー
GK(1st) オレンジ オレンジ オレンジ
GK(2nd) 水色 水色 水色
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FP 1st
image:Image:Kit left arm.png image:Image:Kit body whitestripes.png image:Image:Kit right arm.png
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FP 2nd
image:Image:Kit left arm.png image:Image:Kit body.png image:Image:Kit right arm.png
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image:Image:Kit socks.png
 
GK 1st
image:Image:Kit left arm.png image:Image:Kit body.png image:Image:Kit right arm.png
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GK 2nd

チームカラー

  • チームカラーは紫色

ユニフォームスポンサー

ユニフォーム配色の遍歴

  • 1992年 - 1995年 : 1st:紫・白・紫、2nd:白・紫・白
  • 1996年 - 2002年 : 1st:紫・紫・紫、2nd:白・白・白
  • 2003年 - 2004年 : 1st:紫・白・紫、2nd:白・紫・白
  • 2005年 - 2006年 : 1st:紫・紫・紫、2nd:白・紫・白
  • 2007年 - 現在 : 1st:紫・紫・紫、2nd:白・白・白

歴代ユニフォームスポンサー年表

年度 背番号 パンツ サプライヤー
1992年 - mazda - - Mizuno
1993年 Ford mazda JUKEN - Mizuno
1994年 Ford mazda JUKEN - Mizuno
1995年 mazda - JUKEN - Mizuno
1996年 mazda - JUKEN - Mizuno
1997年 DeODEO - JUKEN - Mizuno
1998年 DeODEO - JUKEN - Mizuno
1999年 DeODEO Calbee JUKEN - Mizuno
2000年 DeODEO Calbee JUKEN - Mizuno
2001年 DeODEO Calbee JUKEN - Mizuno
2002年 DeODEO Calbee JUKEN - Mizuno
2003年 YourVoice Calbee LifeCARD DeODEO Mizuno
2004年 DeODEO Calbee LifeCARD - Mizuno
2005年 DeODEO Calbee LifeCARD URBAN CORPORATION Mizuno
2006年 DeODEO Calbee LifeCARD URBAN CORPORATION Mizuno
2007年 DeODEO Calbee LifeCARD URBAN CORPORATION Mizuno
2008年 DeODEO Calbee LifeCARD URBAN CORPORATION Mizuno
  • 1993~1994年ナビスコカップでは、胸ロゴからFordが外れチームロゴに、天皇杯は1992年と同じだった。
  • YourVoiceとは、エディオングループオリジナルブランド。ちなみに2004年にボイスネットワーク解消に伴い現在は存在していない。
  • Jリーグ発足時は全チームミズノであったが、現在でもミズノを使用しているのはサンフレッチェだけである。

協賛企業

サンフレッチェ広島オフィシャルホームページ参照

株主団体

アイウエオ順表記、計58団体、※印はユニフォームスポンサー。 2007年、第三者割当増資を行い、デオデオが筆頭株主に。

チーム名変遷

  • 1938年~ 東洋工業蹴球部
    • 1943年~1947年 休部
  • 1971年~ 東洋工業サッカー部
  • 1981年~ マツダスポーツクラブ東洋工業サッカー部
  • 1984年~ マツダスポーツクラブサッカー部
  • 1986年~ マツダサッカークラブ
  • 1992年~ サンフレッチェ広島

スタジアム

ホームスタジアム推移

現在は公式戦すべて広島ビッグアーチで行われている。

  • 1992年~ 広島スタジアム
  • 1994年~ 広島ビックアーチ(実公式な本拠地移転の届出は1996年)
    • 1994年~2003年 : 広島スタジアムと併用。
      • 年によって区々(1997年はリーグ・ナビスコすべてビッグアーチ、2003年はリーグ戦両所ちょうど半分づつ、など)、観客増の見込めるカードはビッグアーチ、逆のケースは広島スタジアムで開催。しかし天皇杯はすべて広島スタジアム。
    • 1998年1stステージ : 広島ビッグアーチの施設・ピッチ改修のため、広島スタジアムをホームに。
    • 2004年~2006年 : リーグ戦は広島ビッグアーチ、ナビスコ杯・天皇杯は広島スタジアム。
    • 2007年~ : リーグ戦・カップ戦すべて広島ビックアーチ。

専用スタジアム構想

1951年、広島で国民体育大会が開催されることになり、その中で専用スタジアム建設の話が出た。これが広島で最初に建設論議されたときである。 1960年代東洋工業サッカー部全盛期には、市内中心部にあって交通の便がよかったこともあり、JSLなどの公式戦に広島県立広島国泰寺高等学校のグラウンドをたびたび使用していた(1957年天皇杯決勝・東洋工業対中大クラブはこの国泰寺高校グラウンドで行われた)。そのことから、専用スタジアム建設の話が出て、広島市中区の現在ひろしま美術館があるあたりを候補地の1つとしていたが、実現には至らなかった。

1992年、広島アジア大会のメイン会場およびサンフレッチェのメインスタジアムとして、広島BAが建設された。しかし準メインスタジアムとして使用されていた広島スタジアムも含め、サッカー観戦には不向きな「陸上競技用」のスタジアムであり、観客席からピッチが見づらいこと、屋根がない(2002 FIFAワールドカップの開催地にジョアン・アベランジェから推薦されるも「観客席に屋根がない」ことを理由に実現しなかった)などの構造上の理由から、新たな専用スタジアム建設を叫ばれていた。

2003年2月、広島市長選にて専用スタジアム建設を公約に上げていた秋葉忠利が市長に再選されると建設の動きが急加速し、藤田雄山県知事、野村尊敬県サッカー協会会長、宇田誠商工会議所会頭(サンフレッチェ後援会会長)、久保允誉サンフレッチェ社長もこれに同調した。同年4月1日、関係者9団体が「スタジアム推進プロジェクト」を発足、この年J2降格の責任を取って現場から離れた今西和男が事務局長に就任した。経済波及効果も考慮に入れ、収容2万人・観客席は屋根付き・工事費は100億円以内での建設を目指して、10ヵ所ほどあった候補地から次に挙げる5案に絞り込まれた。

広島市街地中心部辺りから路面電車で約15分位で広島市民が気軽に足を運びやすい場所、広さも申し分ないし、法的なしばりもない。市民がコミュニティの場としてとらえるには、まず最適の場所、ときわめて評価の高い地であった。が、国有地であるため買い取りには200億円もかかるため断念。
これには陸上競技関係者の反対にあい、都市公園法の問題(2万人屋根つき専用スタジアムに改修しようとした場合、隣接する広島県総合グランド野球場を解体しなければならないため、野球関係者からの反発は必至)、航空法の問題(近くに広島西飛行場があるためにスタンドに屋根をつけようとすると航空法による高さ制限にひっかかる)、すぐ南に広島南道路建設が予定されているが、広島西飛行場との関係から道路計画が進まずそれに伴いスタジアム改修計画も進められない、などの理由から断念。
広い駐車場が確保でき、騒音問題が起きない、などのメリットで、最有力候補地として挙げられていたが、地盤沈下や県の財政難から、ペンディング(計画保留扱い)に。
現在の席数7,500席からJリーグ規定の15,000席に増設、建設費10億円のうち、第一球技場を所有する広島市からはピッチと照明費2億円を負担してもらい、2005年シーズン中にオープンということで進められていた。が、市が財政状況の悪化などを理由に改修に難色を示し、また短期間に第一球技場を改修し本格的なスタジアムを建設するのは「二重投資」になるという理由により、この案は一時頓挫した。広島市側は後述の市民球場案を進めたいために難色を示したと思われる。
広島東洋カープの本拠地が東広島貨物駅貨物ヤード跡地に移転するのを機に、球場跡地を利用してサッカー専用スタジアムを建設しようという案を広島市が積極的に推し進め、それに政財界も同調し候補地に決定かと思われた。しかし2006年4月、原爆ドーム(高さ25m)からわずか100m先に高さ45mのマンション建設が着工され、これに工事反対を訴える人々が多数出てきたことにより、原爆ドーム周辺つまり市民球場跡地の「景観性が必要以上に重要視」されるようになってしまった。結果、同年5月21日広島市民球場跡地利用検討会議(第3回)にて「閉鎖された空間が新たに出現し、大規模施設によって平和公園と中央公園が分断される計画であるため望ましくない。」と評価され、断念することとなった。

現在のところ候補として、「五日市地区埋立地新設案」と「広島広域公園第一球技場改修案」さらに「別の場所へ新設する」方向が残った。しかし財政的な問題や、広島南道路・アストラムラインの延伸・カープの新球場などの未着工の大型公共工事計画ため、サッカー専用スタジアム計画は後回しにされ、事実上止まっている状況である。

2008年にサンフレッチェ後援会会長に就任した加藤義明(中電工会長)は、「2万人くらい収容できるサッカー専用スタジアム建設の芽を現実に近づけるよう取り組んでいきたい。そして、機会があるごとにアピールしていきたい。」、と地元経済紙で発言している。

参考資料

  • 日本サポーター協会・広島専用スタジアム建設の行方[1][2]
  • Eタウンメールマガジン・「広島にできるのか? 夢の構想・サッカー専用スタジアム」[3]
  • 広島サッカー向上委員会小城得達広島県サッカー協会会長インタビュー[4]
  • 広島経済レポート・別冊「VITAMIN」

メディア各種

地元メディア

オフィシャル
新聞
TV
ラジオ
情報誌

応援歌

  • 『光の射すほうへ』THE CRANE FLY(2006年~、オフィシャル・イメージソング)
  • 『Remember~スタジアムへの道~』神園さやか(2005年、公認応援ソング)
  • SAYYEA',JAN-GO西城秀樹(1994年、チーム応援歌)
  • 『ときめいてハットトリック~Get Hat Trick~』村井亜紀withNOBU-SONS(1993年~、公認応援ソング)

異競技交流

JTサンダーズワクナガレオリック広島メイプルレッズ中国電力陸上競技部
NTT西日本-中国男女ソフトテニスクラブ、広島ガス男女バドミントン部、コカ・コーラウエストレッドスパークス
広島東洋カープ広島交響楽団

関連項目

外部リンク

Jリーグのシーズン

1993 | 1994 | 1995 | 1996 | 1997 | 1998 | 1999 | 2000 | 2001 | 2002 | 2003 | 2004 | 2005 | 2006 | 2007 | 2008



出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2008年4月8日 02:04 版 改訂履歴
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