ロゴ
0155Wikipedia
ウィキペディア(Wikipedia)の検索ができます。

板東英二

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

オフィスメイワーク から転送)
板東英二
本名 板東英二
別名 バンちゃん
生年月日 1940年4月5日(69歳)
出生地 満州
活動期間 1959年~
活動内容 プロ野球選手司会者野球解説者
配偶者
板東英二
愛称 バンちゃん
現在 タレント司会者俳優野球解説者
所属球団 中日ドラゴンズ
国籍 image:Image:Flag of Japan.svg 日本
出身地 満州徳島県板野郡板東町(現在の鳴門市大麻町)
血液型 O型
守備位置 投手
投球打席 右投右打
背番号 3014(現役時)
英語表記 BANDOH
初出場 1959年
最終出場 1969年
経歴 徳島商高-中日ドラゴンズ
このテンプレートTemplate:Infobox baseball playerに置き換えてください。
詳細はWikipedia‐ノート:ウィキプロジェクト 野球選手#Infobox MLB playerを参照

板東 英二ばんどう えいじ1940年4月5日 - )は、旧満州国(現在の中国東北部)生まれ、徳島県板野郡板東町(現在の鳴門市大麻町)育ち。元プロ野球選手野球解説者ニッポン放送毎日放送と契約、かつては中部日本放送。)、野球評論家タレント司会者俳優スターダストプロモーション系列の芸能事務所オフィスメイワークに所属し、同社社長でもある。愛称は「板ちゃん」。福岡藩家老の子孫で旧男爵家の出身、5歳年上の姉さん女房。 誤記は「坂東」。

目次

来歴·人物

中学卒業後、1956年徳島商高に入学。その年の夏の甲子園に出場するも1回戦で敗れた。1958年、再び夏の甲子園に出場。秋田商高(エースは後に国鉄→サンケイで活躍した石戸四六)、八女高を下して迎えた準々決勝·魚津高戦。18回で25の三振を奪うが相手投手·村椿輝雄も譲らず、0対0のまま引き分け再試合となった(「18回引き分け再試合」が適用された最初の試合)。この再試合も完投し勝利。準決勝では作新学院高を破ったが、決勝で力尽き柳井高に敗れた。この大会で記録した83奪三振は高校野球の一大会における通算奪三振の最多記録であり、現在も破られていない。

1959年中日ドラゴンズに入団。同期入団には王貞治巨人、現ソフトバンク監督)、張本勲東映、現解説者)、村山実阪神1998年死去)、足立光宏阪急)、田中俊幸(南海、後にプロ野球審判員)、江藤愼一(中日、ロッテ大洋太平洋)がいる。「巨人キラー」として活躍し、プロ11年間で77勝65敗の成績を残す。とりわけ1960年代後半には、「投手分業制」を提唱する近藤貞雄コーチの勧めで抑え投手となり、中日の初代リリーフエースとなった。オールスターゲームにも3回出場している。

プロ野球時代の目立った記録としては1961年に21歳で開幕投手となっており、現在も中日の開幕投手の最年少記録として残っている。また、1966年8月26日の巨人戦にリリーフ登板し、国松彰を1球でショートゴロに打ち取って降板。これによりセ・リーグで初の1球勝利投手に輝いている。1968年に右肘軟骨除去手術を受け、翌年1969年限りで現役を退き、その後は野球解説者、タレントとして活躍。現在に至る。

ゆで卵が好物で、東京~大阪の新幹線で6個は食べる(2007年10月20日放送のフジテレビめちゃ×2イケてるッ!』のコーナー「やべっち寿司」での本人談。その話がテロップで表示された時は上部に『板東ウィキペディア』と表示されていた)。

野球関連のエピソード

  • 前述のように魚津高との試合で「延長18回引き分け再試合」が初めて適用されたが、このルールが導入されるきっかけを作ったのも板東である。魚津高との試合のおよそ4ヶ月前、春季四国大会が行われたが、この時板東は徳島商高のエースとして、高知商高戦で16回、さらに翌日の高松商高戦で25回[1](この時の高松商業の石川陽造投手も25回を投げきり、後に東映フライヤーズに入団した)を1人で投げ抜いた。この事態を重く見た高野連はこの年の夏の甲子園から「延長18回を終えて引き分けの場合はその時点で試合を終了し、後日再試合を行う」ことを決定した。また、この延長戦の際、あまりの悲壮な投げ合いに、球審が感極まり、途中から声を出せなくなり、動作のみでコールし、「無声延長戦」と呼ばれた。
  • 当時の徳島商業高校の練習は非常に厳しく、流感や台風による休校時も年中無休で夜11時頃まで行われていた。また、試合前には近くの高校で300球を投げ、試合直前のブルペンでも150球を投げていたと『ジャンクスポーツ』で語っている。前述の延長18回を完投した翌日の再試合も300球の投げ込みを行ってから登板した。
  • 延長18回引き分け再試合になった理由を、後に板東は「四国のピッチャーは速球派でガンガン来るタイプがほとんどで、魚津高の村椿のような、打たせて取る軟投派のピッチャーとは対戦がなかったため、タイミングが合わず、戸惑ったまま試合をしたから」と発言している。なお、延長18回で決着がつかず、翌日再試合が決まった日の夜、村椿は宿舎に帰るやいなや、食事も摂らず、すぐ横になり眠ってしまったのに対し、板東は宿舎に戻った後、しっかり食事をし、風呂に入った上で寝たという。
  • 太田幸司同様甲子園での投げ過ぎで選手生命が縮まったと言われる事が多い。
  • 中日に入団した動機について、「母親が契約金に釣られたから」「球団職員が高額紙幣を使わずにわざと半端な紙幣を使って札束の山を大きく見せ、そんなもの見たことがない徳島の親を買収したから」と講演会で冗談交じりに告白している。王、長嶋よりも高額だった契約金(著書の中で2000万円と公表している。王、長嶋はともに1800万円と言われる)は今でも自慢している。
  • 同期入団でバッテリーを組んだ元ヤクルトの名スカウト片岡宏雄もいつも相部屋で、板東のあまりのおしゃべりで具合を悪くした、と回想録で語っている。
  • 入団2年目の1960年オールスターゲームに監督推薦で選出され、後楽園での第2戦に全セの4番手として登板。先頭は田宮謙次郎大毎)だったが、田宮のネームバリューに圧倒され板東自らの意思で敬遠、小柄である次打者のカールトン半田南海)に対しおちょくったつもりで甘い球を投げたところを痛打され、球宴史上初のランニング本塁打を献上する結果となってしまい、一死もとれずに降板した。更にベンチに戻ると同年の全セ総監督だった水原円裕(当時巨人監督)に「板東、もう名古屋へ帰れ。お前を選んだ俺がバカだった」とダメ出しされた。奇しくも水原、田宮、半田の三者とも後年指導者として板東の在籍時に中日のユニフォームを着ている。ちなみに板東は2007年のMLBオールスターイチローが同大会史上初のランニング本塁打を記録した際にも「日本のオールスター史上初のランニング本塁打を献上したのは僕なんですよ」とあらゆる放送番組で毎度の如く吹聴(自慢!?)していた。
  • 板東は「プロ入りした時点ですでに肘にネズミ(遊離軟骨)があり、肘に自転車のチューブを薄く切ったものを巻き付けた状態で投げていたので、長いイニングを投げるのが苦痛になっていた」と語っている。
  • 板東が現役だった当時の日本では「リリーフ=敗戦処理」の考えが根強く、抑え投手の重要性がそれほど認識されていなかったこと、また同じ時期に「8時半の男」として注目を集めていた宮田征典(巨人)の陰に隠れてしまったことは、板東にとって不幸であった。現役時代の映像がほとんど残っていないのは、板東にとってトークのネタであると共に悔恨事でもある。そのため島田紳助からは「板東さんは『僕はプロ野球で77勝した』なんて言っているが、ほとんどがオープン戦やら高校時代の勝ち星で、本当はプロで4勝ぐらいしかしなかった」とネタにされている。
  • 現役時代の映像が少ない中で、打者としてバッターボックスに立つ映像が残っている。また辛うじて写真がベースボールマガジン社の「週刊ベースボール」別冊に写っている。
  • オープン戦ながら後のヤンキースの名物コーチとなったドン・ジマー(当時東映)とも対戦したことがある。
  • アニメ『巨人の星』で、中日・星一徹コーチが名を挙げて賞賛したことでも知られる。実際は、大リーグから来日して日本野球をバカにしていたアームストロング・オズマに日本野球を知らしめるために、板東・星野仙一山中巽にオズマを討ち取らせて、彼の傲慢な心を折る役目を果たした。
  • 現役引退は権藤博と同時期であった。このとき板東はスカウト、権藤はマネージャー転身を勧められたが2人とも自分に合わないと断っているが、2人とも勧められた仕事が逆であれば球団に残ったと語っている。これが縁というわけでもないだろうが、この2人は仲がよく現在も交流が続いている。
  • 引退の直接の引き金になったといわれる肘の状態は相当悪く、現在も肘がまっすぐに伸びない。引退後20年以上経ってテレビ番組で腕相撲への参加を勧められれたときも、肘の故障を理由に断っている。
  • 1974年当時野球解説をしていたCBCラジオで昼ワイド番組『ばつぐんジョッキー』のパーソナリティも担当。大いに好評を博し、他の曜日の担当者・上岡龍太郎と中日対阪神で盛り上がる。そしてこの年、この番組に当時愛知県在住の大学生だった山本正之が「燃えよドラゴンズ!」を録音テープで投稿し大きな人気を呼んだため、急遽番組企画としてレコードを吹き込んだところ、中日の優勝も相まって大ヒットを記録した。未だに同球団の正式な球団歌は知らなくとも、この歌は知っているというドラゴンズファンは多い。ちなみにこの歌に長嶋茂雄は、「この歌いいよね。元中日の板東君が歌っているんでしょ?」と本人の前で天然ボケな発言をしている。
  • タレント活動が全盛期だったころは、毎日放送の解説者として契約しながら、出演はゲスト扱いの1試合のみ、という年もあった。活動が落ち着いてきた現在は他の解説者同様に出演するほか、近年ではニッポン放送とも契約し、達川光男同様関東・関西をまたにかけ活躍している。
  • 板東が元プロ野球選手であったことを知らない者が若い世代には多く、テレビの野球解説でもっともらしい解説を板東が行ったことに対し、視聴者から「タレントにすぎない板東が何故偉そうに解説しているのか」等の抗議電話が相次いだことがあるらしい。
  • 中日ファンの有名人として扱われることが多いが、本人はTV出演で中日が嫌いだと発言したことがある。自分をクビにしたチームを好きなわけはないとのこと。

現役時代の年度別成績

年度 チーム 登板 完投 完封 無四
勝利 敗戦 投球回 被安打 被本
塁打
与四
死球
奪三振 自責点 防御率(順位)
1959年 中日 33 1 1 1 4 4 97 89 6 29 69 34 3.15
1960年 44 6 0 3 10 11 174.2 145 17 36 126 51 2.62
1961年 47 8 4 2 12 10 193.1 166 14 52 108 56 2.60 (11)
1962年 28 2 1 0 2 9 88.2 85 10 28 56 42 4.25
1963年 30 2 1 1 3 1 73.2 77 2 28 39 25 3.04
1964年 53 2 0 0 6 7 140.1 144 13 47 73 48 3.09 (14)
1965年 55 0 0 0 12 7 156.1 120 11 48 87 39 2.25 (6)
1966年 60 0 0 0 13 5 133 103 14 31 91 38 2.57 (10)
1967年 51 0 0 0 14 6 119.2 110 11 30 72 34 2.55
1968年 18 0 0 0 1 4 21.2 29 3 11 12 16 6.55
1969年 16 0 0 0 0 1 22.1 23 1 12 15 9 3.68
通算成績 435 21 7 7 77 65 1220.2 1091 102 356 748 392 2.89

背番号

  • 30(1959年~1960年、1963年~1964年)
  • 14(1961年~1962年、1965年~1969年)

タイトル・表彰

芸能界

  • 1979年頃に関西ローカル局朝日放送の深夜番組のメイン司会者を担当したのが、事実上の芸能界デビュー。視聴者参加型のビンゴゲーム番組で、『THE ビッグ!』というタイトルで土曜日の夜11:15~0:20の間ABCホールから生放送。「ビンゴシュート!」の掛け声とともに投球フォームを披露した。ちなみに当時中京エリアだけでのローカルタレントであった板東を関西地区に呼び寄せたのは上岡龍太郎であった。このときに上岡は板東に対して「君のセールスポイントは元気なところだから、常に全力で大きな声で番組をやっていけ」とアドバイスしていた。
  • その頃から出身地の徳島県に近い事もあってか、関西地区の各メディアの番組にも多数出演するようになる。1980年代関西テレビ土曜昼に放送されていた『ノンストップゲーム』では司会として横山ノック桂文珍と共に人気を博す。
  • 1984年に当時のプロ野球や自分の現役時代の裏話を集めた『プロ野球知らなきゃ損する』『プロ野球これだけ知ったらクビになる』を執筆。それぞれその年の1位、2位のベストセラーとなり、以後人気シリーズとなる。また、この年、TBS金曜日の妻たちへII 男たちよ、元気かい?』でドラマ初出演し、俳優デビューを果たした。
  • 1985年には人気ドラマ『毎度おさわがせします』に中山美穂の父役で出演し、その後、金妻シリーズの第3作目『金曜日の妻たちへIII 恋におちて』にも小川知子演じる山下由子の夫、山下宏治役で出演して好評を得た。そしてこの金妻シリーズは板東が後に俳優としての道を歩む大きな一歩になったのは言うまでもないであろう。1989年には、向田邦子原作の映画『あ・うん』で高倉健と共演し、翌年の第13回日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を受賞しており、その演技は高く評価されている。
  • また、演じている役のほとんどが関西出身の設定である事から関西弁で演じている(ただし、『華麗なる一族』では標準語)。また、金妻シリーズや『金曜日には花を買って』『毎度おさわがせします』で共演した縁で香坂みゆき篠ひろ子佐藤B作とは現在でも親交が深く、後に始まった『土曜大好き!830』で香坂は女性アシスタントとして板東とタッグを組み、篠はこの番組の第1回と最終回の放送で記念ゲストとして、B作もこの番組のゲストとして何度も迎えられている。
  • 1980年代以降、クイズ番組司会解答者どちらとしても多く出演(『クイズのりもの講座』、『わいわいスポーツ塾』、『マジカル頭脳パワー!!』、『クイズスーパースペシャル→スーパークイズスペシャル』、『クイズ!純粋男女交遊』など)。現在は『世界ふしぎ発見』に解答者として出演するほか、2007年1月から3月まで放送していたTBSの『華麗なる一族』の第4話で水谷通産大臣役として出演したこともある(クイズ番組の一部で関西弁と標準語を使い分けている)。
  • 黒柳徹子とは『世界・ふしぎ発見!』で初めて共演したが、始めから黒柳を「おばん」(関西弁でおばさんの意味。黒柳談。当初は「おばはん」を聞きなれないため、こんばんはの意味の「おばん」と解釈した)呼ばわりし、黒柳を驚かせたが、関係は良好のようである。関西での板東の番組のゲストに名乗り出ることもあり、正しくない関西弁で板東の素顔を語っている。黒柳は野球に対する知識がまったくないが、内容を吟味してあるであろうか、会話が混乱することはない。
  • 1990年代には、司会を務めた日本テレビ系のクイズ番組『マジカル頭脳パワー!!』において、パネラー達との絶妙なやりとりが人気となり、ピーク時には毎週20%を超える高視聴率番組となった。
  • パネルクイズアタック25』(朝日放送・テレビ朝日系)の司会を務めていた児玉清が病気により出演できなくなった時、代理司会として2週にわたり抜擢されたこともある。児玉清以外にこの番組の司会を務めたのは、先にも後にも板東英二ただ一人だけである他、『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』などでも代理司会として担当したこともあり、前述の通り、クイズ番組の司会を担当は多い。
  • タレント業が波に乗る以前、板東は2代目桂枝雀の弟子になりたいと門を叩いたことがあるが、激怒されたらしい(詳細不明)。そのため、板東は枝雀を恐れていた。島田紳助が駆け出しのころ、板東のラジオに出演した際破格のギャラを提示し躊躇う紳助に対し「売れて返してくれたらいい」と答え紳助は意気に感じたという。その後珍プレー特集の司会者として長年紳助と共演した。
  • 演芸人としてはフジテレビが主催する「昭和58年度 第12回 日本放送演芸大賞」で、最優秀ホープ賞を受賞している。

ちなみにこの年のホープ賞はコント赤信号片岡鶴太郎桂文福斎藤ゆう子三遊亭小遊三山田邦子で、大賞はタモリが受賞している。

桂春彦との関係

2000年、元付き人だった桂春彦から7億円を脅し取られそうになったが、春彦は逮捕され未遂に終わった。(詳細は桂春彦のページを参照のこと)

板東の付き人や個人事務所のスタッフに対しての教育は服装や遅刻に関してのモラルやマナーや芸や仕事には厳しい。春彦がそれが原因で事務所を解雇され、その腹いせに春彦が恐喝した。

現在

  • 中部地方限定のローカル番組である『そこ知り板東リサーチ』において、毒舌ぶりを発揮しながら東海三県を渡り歩く番組は好評で、いつの間にか名古屋の顔として定着してきている。確定申告の時期になると、名古屋国税局に出向く姿がイメージキャラクターとして映像が使われている。
  • 2005年3月12日放送の『晴れ・どきドキ晴れ』で愛知万博のアクセス口・名古屋市名東区藤が丘に現在住んでいることを公表した。毎週のように東京や大阪にも仕事で飛び回る多忙ぶりである。また、現在はニッポン放送MBSラジオのプロ野球解説者(いずれも本数契約)とサンケイスポーツ専属のプロ野球評論家として活躍している。彼が試合の解説・評論をする時には早くから球場に入って、両軍の選手・監督などを精力的に取材を行う。
  • 王貞治(現・ソフトバンク監督)よりも入団時の契約金が高かった(小切手に「1」だけ書き込まれ、「後は好きなだけ0を書いてください」と言われた、と話したこともある)ことをいまだにトーク番組で自慢しており、最近ではフジテレビの『ジャンクSPORTS』に出演したときもそのことを語った。王とは「同学年で甲子園のスーパースター」という共通点があったこともあり仲が良く、巨人と中日が対戦する前日には2人で夕食を食べに行くほどだった。また板東が金妻シリーズに出演していた当時、巨人監督だった王は「俺も1度出てみたいよ」とうらやましがったという。
  • プロ野球に関しては地域によって発言がコロコロと変わり(高田文夫には「あの人は三枚舌だから」と評された)、関西で放送されてる『ちちんぷいぷい』において、渡邉恒雄巨人軍会長を「もうボケたじじぃが出てくんな」と過激発言をし、同じ出演者の元NHKアナウンサー宮川俊二に至っては「もう、お亡くなりになられた方がいいですね」と発言をしスタジオを凍りつかせてしまった。
  • タレント業もさることながら、自身(の事務所メイワーク)が運営するECサイト「板東商店.com」や、テレビ・プラス社との共同事業で運営するこだわりの食材ECサイト「美味!ニッポン」などを手がけるなど、手広く事業を行っている。特に「美味!ニッポン」は放送番組との連動企画で、この番組に関連したブログ「板東英二の感動!味日記」を執筆するなど、積極的な姿勢で取り組んでいる。
  • 2007年12月12日放送の『笑っていいとも!』にて、巨人の原辰徳監督より、2008年の投手コーチ就任を要請されていたが、固辞したことを明かした。

現在の出演番組

過去の出演番組

テレビ

ラジオ

出演した映画

出演したCM

著書

  • 赤い手
  • プロ野球知らなきゃ損する
  • プロ野球これだけ知ったらクビになる
  • プロ野球殺られても書かずにいられない
  • プロ野球ここを喋る奴はウチから出て行け
  • プロ野球この極秘事項を知ったら100倍面白い
  • プロ野球とても言えなかった機密事項
  • 板東英二のもっと言わせろ、プロ野球!
  • プロ野球ことしは黙ってられないゾ
  • アッコとバンちゃんの言いたい放題

トピックス

  • 現役時代、ある試合で板東がリリーフとしてマウンドに登場すると、ネット裏にいた観客から、板東自身と、板東を起用した近藤貞雄コーチを野次る声が聞こえた。怒った板東はきっちり抑えると、一目散にネット裏に向かい、ネットをよじ登って野次の主のいる方向へ散々唾を吐きかけた。ふと隣で同じようにネットによじ登って唾を吐き飛ばしている者がいることに気づき、横を見るとそれは近藤コーチであったという。
  • 大阪・西天満にビル所有し、日産・プレジデントを購入。また、最近はトヨタ・istを購入した。中日入団時から現役引退後を見据えていたのか(入団時にはすでに右肘に爆弾を抱えていた)、現役時代からサウナの経営やジュークボックスの販売をしていたほどで、財テクに長けていたことでも知られている。1990年代前半のバブル崩壊に伴い大きな経済的損失を出した。人気司会者である島田紳助に財テクを教え込んだとも言われている(紳助はその後、不動産などの面でも大きな収益を得ている)。
  • 1982年のペナントレースは中日と巨人が熾烈な優勝争いを展開したが、日本テレビ徳光和夫アナウンサー(当時)が『ズームイン!!朝!』で「もし、万が一我が読売巨人軍が優勝できなかったら私は丸坊主になります」と発言。同じく同番組に出演していた広島テレビ脇田義信アナウンサー(故人)も広島が優勝しなかった場合の丸坊主を公約した。結局中日が優勝し、徳光と脇田は中京テレビのリポーター・きくち教児ローカルタレント)と板東から丸坊主にされた。
  • 1985年のペナント開幕前に上岡龍太郎と、当時上岡が司会をしていたKBS京都の番組『タイガースフィーバー』内で「阪神タイガースが優勝したら番組視聴者をハワイ旅行へペアでプレゼントする」と発言。その年阪神は日本一に輝き、テレビ視聴者にハワイ旅行をペアでプレゼントした。同様に島田紳助も「タイガースが優勝したら丸坊主にする」と約束したが、紳助は「仕事上丸坊主はまずいので勘弁してください」ということで、放送関係者などに「日清どん兵衛」を配った。
  • NHKの『ええにょぼ』では戸田菜穂が演じるヒロインの父親役を演じたが、自らがガンで息を引き取るシーンでその日が終了した直後、朝8:30に自ら司会を務める民放の番組の冒頭に大アップで登場し、にこやかに自分の臨終を報告したのが、彼の芸域の広さを物語っている。
  • 阪神の星野仙一シニアディレクターは板東より年齢が7歳も年下(学年は6つ下)であり、中日の先輩後輩にも関わらず、板東は星野のことを「監督!」と呼び、敬語でしゃべる(板東は中日監督に就任する前の星野を著書やテレビ番組でそのまま「星野」と呼んでいた。著書では星野の人となりについても「闘志あふれる男と言われるがあれは星野の実像ではない。交替も自分から変えてくれと言った方が多いのではないか。ホントは気の小さい男なのだ。」「巨人相手に投げるのが生き甲斐だなんて言っているが広島戦の方がよっぽど一生懸命投げていた。その方が勝星につながるからだ」などの記述が見られる)。また星野は板東に対し「板ちゃん」と呼び、敬語を使わない。これについて明石家さんまからは「板東さん、チームの先輩だから『星野』って呼んだらいいのに」とネタにされるが本人は変える気はない。だがソフトバンクの王監督のことは同学年のライバル・親友であることから「王監督」とは言っておらず、「王」と呼び捨てにしている。更に10歳年下の和田アキ子にも「板ちゃん」と呼ばれているが、板東は和田を「アッコ」と呼んでいる(ちなみに年下である明石家さんまや島田紳助などからは「板東さん」と呼ばれるが、同じ年下であるやしきたかじんなどからは「板ちゃん」と呼ばれている)。
  • ずるいゴルフをすることも知られ、周りと喋りながら自分のボールをクラブで引きずるなど、ルール違反も甚だしいゴルフを展開する。2003年の正月にはオーストラリアで板東・さんま・星野の3人でゴルフをし、何時も通りのせこいプレイをしていたところをさんまに見つかり突っ込まれ、その返答として板東が発した「勝ちたいんや」という言葉がその後、阪神優勝の合言葉として使用される事になった。板東は自分の発した言葉が想像以上にヒットし、「勝ちたいんやドリンク」などの商品名にも使われ始めた事から、当時さんまに会う度、「あれは僕の言葉なのに……」とか「あの(ゴルフの)こと、もっとテレビでしゃべってほしい」とせがんでいたのである。その後、「勝ちたいんや」は流行語となった。上方芸人が多数参加する、お笑い芸人を対象としたゴルフ大会に何故か毎年参加している。また、90年代に東西の芸人が集結し、数度に渡って行われていたコンペ「素人名人会」でも他の出場者から「部外者」「出場資格なし」とネタにされながら「オブザーバー」出場を認められていた。
  • めちゃ×2イケてるッ!』の1コーナー「やべっち寿司」に出演したときにカレービビンバを食べ、「これは商品化したほうがいい!」と本気で矢部に勧めていた。
  • 板東は島田紳助と株式投資の相談をしていた。そのとき、当時大阪府知事であった横山ノックが、板東らに「養命酒、いけるぞ~!!」と通りかがりに発言した。板東と紳助は、ノックの一言が「政治家が投資関連の情報をもっていて、政治家の立場上はっきり言えないのでヒントを与えてくれた」と思い込んだ。早速、板東と紳助は養命酒製造株式会社の株式を購入したが、養命酒の株価は下落して、結果的に投資は失敗した。後日、紳助が「養命酒(の株を買ったが失敗したので)でエライ目(酷い目)にあいましたよ、養命酒はいいと教えてくれたのはどうでした?」とノックに言ったが、ノックの方は「身体に一番いいんだ!」と返答した。ノックはただ養命酒が健康に良いと言ったつもりだった。
  • 新大阪ゆで卵を6つ買い、東京に着くまでに全部食べてしまうほどゆで卵が大好物。SMAP中居正広ナインティナイン岡村隆史にこのことをよく物真似される。
  • お酒を飲む際、小指を立てながら飲むのはあまりにも有名な話である。
  • 20年近く徳島県からは彼以外に芸能人として成功した人物が現れなかったために、徳島県で有名人を一人挙げろといわれると県民はほぼ確実に板東英二を挙げる。また、このことから、「徳島人はコケる」というありがたくないジンクスを生んでしまっていた。しかし、近年になり大杉漣アンジェラ・アキチャットモンチーが全国区の知名度になったこともあり、県内では「板東英二以来の芸能人」として話題になっている。
  • 高校野球時代の自分の実績に強く誇りを持っており、プロ野球選手時代の自分を笑いのネタにすることは多いが、高校野球時代をネタにすることは全くと言っていいほどない。

関連項目

注釈

  1. ^ 徳島県高等学校野球連盟・記録

外部リンク


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2008年4月8日 02:04 版 改訂履歴
Text is available under GNU Free Documentation License.
GNU Free Documentation License 1.2 Powered by MediaWiki